」
「お早う……ひとり?」
柳はきのうのことは何にも云わず、ごくあたりまえに、
「おひるにまた誘ってね」
と云った。
十四
三十三円六十八銭也。それだけが××○○会社の中で、はる子の慰問金としてあつまった。一番親しく行き来しているしづ子がそれをはる子の家へ届ける役に当った。
二日ばかりしてはる子から心のこもった礼状が慰問金を出した女事務員一同宛に来た。例の洗面所でその手紙をとりついだしづ子が、
「……これ……お金出してくれた人たちに一わたり見せなきゃいけないわねえ」
と柳に相談をもちかけた。
「そりゃそうね」
「こうしちゃどうでしょう」
わきかられい子が云った。
「私達がこんなことしているの、どうせ社内の人たちには知れているんだし、きっと沖本にだって分ってると思うわ。お金出してくれた人たちは、どっちみち大抵二十銭階級なんだからいっそおひる[#「おひる」に傍点]に食堂へはる子さんからの手紙を貼り出しちゃったらどうかしら――」
ミサ子は、緊張した期待で柳の返事をまった。これまで××○○会社の食堂にそんな社員から社員への呼びかけが貼られたことなんぞ一遍もなかったことだ。
「……どう思う? みんな」
れい子は熱心に、
「庶務の連中をだんだんこういうことに慣らして何も云わせないようにするにもって来いだと思うんだけれど……」
と云った。
「――どうかしら……」
しづ子が、はる子からの手紙を改めてひろげながら、
「でもね、これには一人一人お金出した人の名が並んでるのよ、はる子さんは律気だもんだから……」
「やっぱり、先《せん》のようにしてこれは廻しましょうよ」
柳が決定的に云った。
「せっかくお金出したのに、あとあとまで睨まれたり、迷惑がったりする人があっちゃいけないもの……、今日しづ子さん、あなたの部だけまわしてしまえない?」
「さあ、やって見るわ」
「あしたは、れい子さんの方へまわしましょうよ、ね?」
そして、柳は、
「そのとき、ちょっとこれもついでにまわしてよ」
と、窓枠へ紙を押しつけて、手早く一枚の短いノートを書いた。
「なんなの?」
書いている肩越しに覗き込みながられい子が、
「あら、本当?」
と嬉しそうな声を出した。
「私早速申込もうっ、と!」
「なに、なに」
「この次の左翼劇場へ団体で見物に行けるんですってさ」
「へえ……」
しづ子は、左翼劇場のことなどはよく知らないらしい。ぼんやり、柳からノートをうけとった。
「まとめて切符とると、やすくなるのよ。あなたの方で何枚いるか、はる子さんの手紙といっしょに希望者を集めて下さいね」
ミサ子は、左翼劇場へゆくときなんかはよく連立って出かける××商事の順子のことを思い出した。
「ね、それには、よそ[#「よそ」に傍点]のひと誘っちゃいけないかしら」
と柳にきいた。
「よそ[#「よそ」に傍点]のひとって……」
「私、××商事に友達がいるのよ。よく一緒に築地へなんか行ってるんだけれど、そんなひとまで入れちゃいけないものかしら……」
「いいわ!」
柳が、下膨れのゆったりした頬をぽーっと赧らめながら、
「とても歓迎よ!」
と力をこめて答えた。
「そのことも書いとこう! ね? れい子さん、この近所に勤めているお友達は誘っていいのよ」
柳は、しづ子からノートをとり戻してその注意を書き添えた。
「へ、じゃすみませんがこれをどうぞ」
はる子の慰問金を集めた経験から、××○○会社の女事務員たちはみんな廻状をまわしたりすることに大分馴れた。執務時間中、よその課のしづ子が入って来てちょっと話して出て行った後、男の社員が、
「おい、何をこそこそやってたんだい?」
などと云っても、サワ子まで、
「楽しい相談!」
と笑いまぎらすようなゆとりが出て来た。ミサ子はその日のひけ際、いそいで順子のところへよって話をまとめた。おとなしい順子は、
「あなた達の方、この頃何だか面白そうでいいわねえ、こっち平凡よ」
と羨しそうに、毒のない好奇心を示して云った。
「そっちはそっちであなたでも先に立ってやればいいのに」
「駄目よ。……まあお仲間に入れといてよ、当分。……その内には何とかなるかもしれないから」
もっと外に左翼劇場見物に誘う相手はないかと考えるうちに、ミサ子は三輪みどりを思い出した。元柳原の三角みたいなみどりの室というのへも、つい暇がなくてまだ行かなかった。エスペラント講習会へも近頃みどりは初めの頃ほどきちんとは出て来ない。――
ちょうど退け時間が迫ってシトシト薄ら寒い小雨が降り出した夕暮のことだ。ミサ子は傘なしで、車蓋の濡れ光るタクシーの流れを突切り、丸ビルへかけ込んだ。みどりの勤め先の堂本兄弟商会というのを一階の案内書で調べると、五階にある。エレヴェータアを出てから右へ行くところを左からまわったのでミサ子はあらかた事務所は退けた後の廊下をいい加減歩いた。湯呑所で、小使が荒っぽく後片づけをしている。わきに金文字で堂本兄弟商会と書いたドアがしまっている。
ミサ子はハンドルに手をかけてまわして見た。明《あ》かない。二三度まわして見た。それでも開かない。隣室のドアが半開きになって、そこには床を掃いている給仕の姿が見えるが、それはもうよそだ。ミサ子は湯呑所のところへ行って、
「堂本の事務所ではもうみんなひけたんでしょうか」
と小使いに訊いて見た。ガス焜炉を動かして台を拭きながら、
「まだでしょう」
「しまっているんですけれど――」
「へえ……つい今しがたまでいたんだが……じゃかえったかな」
大してとり合う気勢もない。ミサ子はドアの前まで戻って行き、向い側の壁にもたれて風呂敷包みをときかけた。みどりが明日の朝来て見るように、書き置きをして行こうと思ったのだ。ミサ子が小さいはぎとり帳をひき出したとき、今まで薄暗かった堂本兄弟商会のドアの内部にパッと電燈がついた。おや、と目をあげた拍子に再び電燈は消えてしまった。何かの間違いだったのだろう。ちょっと様子を見た後ミサ子が再び手帳へ目を落そうとすると、今度は明らかに誰かの仕業らしく、パッ、パッ、と二三度電燈が明滅し、ひどい勢でドアの錠があく音がしたかと思うと、派手な袂で風を切って内から飛び出して来た若い女がある。ミサ子の方がぎょっとした。みどりであった。
みどりは立っているミサ子をすぐ認めた。が、まるで今ミサ子がそこにそうやっていることは約束してでもあったように、何とも云わず上気した顔のまんまずんずん洗面所の方へ歩き出した。みどりのとび出したドアの内では、男が無遠慮に痰をはいている音がする。ミサ子は何だかそこにそのまま立っていられない気持になって、洗面所へ行った。みどりが水道の栓をひねりっぱなしにして顔を洗っている。掌に掬った水で邪慳に自分の唇を洗って、ハンケチで拭いて、声に出して云った。
「チェッ! 畜生!」
ミサ子が入って行くと、直ぐ、
「よっぽど前に来た?」
と訊いた。
「……いないのかと思ったわ」
「ふむ」
みどりは、こわい、怒った眼つきのまま今は髪をときつけている。ミサ子には前後の事情が分るまいとしても分る。みどりは、凝っと鏡の面に目を据えて断髪を梳いていたが、急にミサ子の方を向いて、
「どう?」
と云った。
「私たちは、こういう目にも会うのよ」
そして、自嘲するように笑おうとしたがみどりの唇が震えて、見る見る目に涙が湧き出して来た。頬っぺたを涙の粒がころがり落ちた。それを荒々しく手の甲で拭いて、みどりは鼻の頭をコンパクトでたたき始めた。
わきに立って、その様子を見ているミサ子はみどりの気持が一々わかる。
「――出ちまいなさいよ!」
ミサ子は思わず親身な声を出して云った。
「出されちまうわ、どうせ。堂本の奴ったら……畜生! ひとを……旗日だってったら、証拠を見せろだって手なんぞ出しやがって……チェッ!」
帯までしめ直すと、みどりがやや気の鎮まった調子で、
「何か用だったの?」
ときいた。
「あなたもしかしたらこの次の左翼劇場見に行くかしらと思って――私のところに割引で切符を買うついでがあるから訊きに来たんです」
「まあ――ありがとう。それでわざわざよってくれたの?」
「近いもん」
「そりゃそうだけれど――私、うれしいわ。是非仲間へ入れて下さい! お金わたしておきましょうか?」
「切符とひきかえでいいわ」
「……じゃ、私ハンド・バッグとって来なけりゃ……ここいらで待ってて下さいな」
「――大丈夫なの?」
「平気さ」
ミサ子が洗面所の前に立って待っている。みどりは堂本兄弟商会という字が廊下のこっちから見える程ひろくドアを開けっぱなしたまま、事務室内へ姿を消した。
十五
その二十日ほど前から、日本中の新聞が満蒙事変を喧しく報道して、号外の鈴の音がミサ子たちの働いている××○○会社の窓越しにまで聞えた。奉天を占領したとか、独立守備隊がどこそこへ進軍したとかいう記事が一号活字で新聞に出ても、××○○会社の若い平社員たちは一般に冷淡で、疑わしそうにジロジロひろげた新聞を読みながら、
「おい、社はこれでいくらぐらい儲ける魂胆なんだろうな」
などと云った。
「俺たちに何のかかわりあらんや! だ」
「〔六十二字伏字〕」
「〔六十七字伏字〕」
××○○会社の女事務員たちも、直接この事件については冷やかな態度で、格別みんなの話題にものぼらなかった。ぼんやりとではあるが、〔十五字伏字〕投資している資本家どもの利益になるばかりだと分って、新聞の空騒ぎに対して一般的な反感があった。
昼休みのとき、濠端を四五人でぶらぶら歩いていたら、ちょうど号外売りがやって来た。腰の鈴を振りながら車道と人道とのすれすれのところを走って行く後姿を眺めて柳が誰にともなく、
「ブルジョアどもはこすいわねえ」
と云った。
「早くっから蜻蛉《とんぼ》の模様なんか売り出させてさ。――今年は蜻蛉の模様がこう流行るから、きっと戦《いくさ》がある前徴だなんて云いふらさせて……」
ミサ子でさえ、そのときは柳の言葉を大して注意してきいてはいなかった。
この頃になって××○○会社の女事務員たちの間に不平が出て来た。残務が目立って殖えて来たのだ。××○○会社は満州に重要な姉妹会社をいくつも持っているし、国内的に見ても、軍事工業関係の製粉、染料、肥料、金属などの工場をいくつか経営していた。戦となればそれぞれが毒ガス、火薬、銃器製造所となる。××○○会社はうんと儲けるわけだが、残務の女事務員は相変らず五時から七時までは二時間を丸ままただで搾られなければならない。
「ねえ、ちょっとやり切れないわね、私これでもうつづけざま三日よ」
益本が食堂で、みんなに聞えるような大きい声で苦情を並べた。
「はる子さんの二の舞なんか、私真平御免だ」
ミサ子にしろ、一週に平均二度ぐらいだった残務が殆ど一日おきぐらいの割になって来た。それでいて世間一般を見れば、いろんな工場や役所では依然として首キリがどんどんされている。
左翼劇場団体見物の申込みをあつめたれい子が、
「庶務じゃ一体何を考え出したんだろう」
と怪訝《けげん》そうに呟いた。
「ね、女事務員一同に戸籍謄本を出させるんですってさ……」
「ほんと?」
しづ子が眉をもちあげて訊きかえした。
「ほんとらしいのよ、どうも」
「私困っちゃうな……どうして別な名をつかってるかなんて変なこと云われやしないかしら……」
「まさか!」とよ子がうち消した。
「だってあなた結婚する前に入ってるんだもの」
しづ子は半年ばかり前に結婚した。会社では既婚者を大体歓迎しないもんで、しづ子は旧姓のまま通していたのであった。特別な事情のない者にとっても、これは何か新しいことのはじまる前ぶれだという不安な予感を与えた。
「おかしいわね、あなた入社のときそんなものとられたこと?」
「いらなかったわ」
「入って何年にもなるのに今更どうしようっていうんだろう……」
柳は口々の言葉をききながら自分からは何も云わなかった。
四五日
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