、ちょうど号外売りがやって来た。腰の鈴を振りながら車道と人道とのすれすれのところを走って行く後姿を眺めて柳が誰にともなく、
「ブルジョアどもはこすいわねえ」
と云った。
「早くっから蜻蛉《とんぼ》の模様なんか売り出させてさ。――今年は蜻蛉の模様がこう流行るから、きっと戦《いくさ》がある前徴だなんて云いふらさせて……」
 ミサ子でさえ、そのときは柳の言葉を大して注意してきいてはいなかった。
 この頃になって××○○会社の女事務員たちの間に不平が出て来た。残務が目立って殖えて来たのだ。××○○会社は満州に重要な姉妹会社をいくつも持っているし、国内的に見ても、軍事工業関係の製粉、染料、肥料、金属などの工場をいくつか経営していた。戦となればそれぞれが毒ガス、火薬、銃器製造所となる。××○○会社はうんと儲けるわけだが、残務の女事務員は相変らず五時から七時までは二時間を丸ままただで搾られなければならない。
「ねえ、ちょっとやり切れないわね、私これでもうつづけざま三日よ」
 益本が食堂で、みんなに聞えるような大きい声で苦情を並べた。
「はる子さんの二の舞なんか、私真平御免だ」
 ミサ子にしろ、一週に平均二度ぐらいだった残務が殆ど一日おきぐらいの割になって来た。それでいて世間一般を見れば、いろんな工場や役所では依然として首キリがどんどんされている。
 左翼劇場団体見物の申込みをあつめたれい子が、
「庶務じゃ一体何を考え出したんだろう」
と怪訝《けげん》そうに呟いた。
「ね、女事務員一同に戸籍謄本を出させるんですってさ……」
「ほんと?」
 しづ子が眉をもちあげて訊きかえした。
「ほんとらしいのよ、どうも」
「私困っちゃうな……どうして別な名をつかってるかなんて変なこと云われやしないかしら……」
「まさか!」とよ子がうち消した。
「だってあなた結婚する前に入ってるんだもの」
 しづ子は半年ばかり前に結婚した。会社では既婚者を大体歓迎しないもんで、しづ子は旧姓のまま通していたのであった。特別な事情のない者にとっても、これは何か新しいことのはじまる前ぶれだという不安な予感を与えた。
「おかしいわね、あなた入社のときそんなものとられたこと?」
「いらなかったわ」
「入って何年にもなるのに今更どうしようっていうんだろう……」
 柳は口々の言葉をききながら自分からは何も云わなかった。
 四五日すると、実際サワ子が沖本によばれて、戸籍謄本を出すようにと云われた。
「いやあね、薄気味わるいったらありゃしない。沖本ったら、元来履歴書と一緒にどこだって出させているものだが、これまではみんな紹介だったから放っておいたんですって……形式だけのことだよだって云っていたことよ」

 ミサ子は机の前に坐って小型の日記帳をつけていた。夕飯をすましたばかりで、階下《した》では煙草専売局へ勤めている亭主がラジオの薩摩琵琶を聞いている。
 格子のあく音がして、
「大井田さん、お客様ですよ」
 細君が階子口から呼んだ。立って行く間もなく、
「いい?」
 勤めのまんまの装をした柳が登って来た。
「どうしたの」
「ちょっと」
 ミサ子の机のわきに坐るとすぐ柳が、
「あなた今夜ずっといる?」ときいた。
「ええ」
「一人ひとを泊めてやってくれないかしら」
 ミサ子は、
「……布団がないんだけれど」
と困惑そうな顔をした。
「いいのよ、窮屈でもおもやいにして泊めて貰えたらたすかるわ。十八ばかりの娘さんですよ……今度だけどうにかなればいいんだから……」
 柳は何か頻りに考えていたが、
「その娘さん沢田って云って来る筈だから、どうぞよろしく」
 半ばふざけてのように軽くお辞儀をした。
「多分九時頃来ますからね、心配はいらないの、寝させてさえやればいいんだから――」
 ミサ子にはその娘がどんな仕事をしている人か略《ほぼ》見当がつくように思われた。
「私の友達ということでいいんでしょう?」
「結構だわ、じゃどうぞ」
 どこか落つかない気持で待っていると、約束の時間より早めに、銘仙ずくめのおとなしい装の若い女がミサ子を訪ねてやって来た。
 電燈の下で向いあったが、ミサ子にもその女にも、別に話すことがない。顔を見合わせ、何ということなく微笑みあった。沢田というその女は、やがて淡白な口調で、
「あしたあなたお早いんですか」と訊いた。
「私、勤めているんです。七時に起きりゃいいんだけれど、あなたは?」
「六時前に出かけたいから……そろそろやすみましょうか」
「布団がなくてわるいわね」
「私こそ、いきなり御厄介になってすみません」
 沢田はミサ子を手伝って布団をしくと、行儀よく、だがちっとも遠慮せず帯をといて寝仕度をした。
 ミサ子の仕度を待って、
「あなた、どっち側がいいでしょう」ときいた。
「どっちだって
前へ 次へ
全19ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング