右へ行くところを左からまわったのでミサ子はあらかた事務所は退けた後の廊下をいい加減歩いた。湯呑所で、小使が荒っぽく後片づけをしている。わきに金文字で堂本兄弟商会と書いたドアがしまっている。
ミサ子はハンドルに手をかけてまわして見た。明《あ》かない。二三度まわして見た。それでも開かない。隣室のドアが半開きになって、そこには床を掃いている給仕の姿が見えるが、それはもうよそだ。ミサ子は湯呑所のところへ行って、
「堂本の事務所ではもうみんなひけたんでしょうか」
と小使いに訊いて見た。ガス焜炉を動かして台を拭きながら、
「まだでしょう」
「しまっているんですけれど――」
「へえ……つい今しがたまでいたんだが……じゃかえったかな」
大してとり合う気勢もない。ミサ子はドアの前まで戻って行き、向い側の壁にもたれて風呂敷包みをときかけた。みどりが明日の朝来て見るように、書き置きをして行こうと思ったのだ。ミサ子が小さいはぎとり帳をひき出したとき、今まで薄暗かった堂本兄弟商会のドアの内部にパッと電燈がついた。おや、と目をあげた拍子に再び電燈は消えてしまった。何かの間違いだったのだろう。ちょっと様子を見た後ミサ子が再び手帳へ目を落そうとすると、今度は明らかに誰かの仕業らしく、パッ、パッ、と二三度電燈が明滅し、ひどい勢でドアの錠があく音がしたかと思うと、派手な袂で風を切って内から飛び出して来た若い女がある。ミサ子の方がぎょっとした。みどりであった。
みどりは立っているミサ子をすぐ認めた。が、まるで今ミサ子がそこにそうやっていることは約束してでもあったように、何とも云わず上気した顔のまんまずんずん洗面所の方へ歩き出した。みどりのとび出したドアの内では、男が無遠慮に痰をはいている音がする。ミサ子は何だかそこにそのまま立っていられない気持になって、洗面所へ行った。みどりが水道の栓をひねりっぱなしにして顔を洗っている。掌に掬った水で邪慳に自分の唇を洗って、ハンケチで拭いて、声に出して云った。
「チェッ! 畜生!」
ミサ子が入って行くと、直ぐ、
「よっぽど前に来た?」
と訊いた。
「……いないのかと思ったわ」
「ふむ」
みどりは、こわい、怒った眼つきのまま今は髪をときつけている。ミサ子には前後の事情が分るまいとしても分る。みどりは、凝っと鏡の面に目を据えて断髪を梳いていたが、急にミサ子の方を向いて、
「どう?」
と云った。
「私たちは、こういう目にも会うのよ」
そして、自嘲するように笑おうとしたがみどりの唇が震えて、見る見る目に涙が湧き出して来た。頬っぺたを涙の粒がころがり落ちた。それを荒々しく手の甲で拭いて、みどりは鼻の頭をコンパクトでたたき始めた。
わきに立って、その様子を見ているミサ子はみどりの気持が一々わかる。
「――出ちまいなさいよ!」
ミサ子は思わず親身な声を出して云った。
「出されちまうわ、どうせ。堂本の奴ったら……畜生! ひとを……旗日だってったら、証拠を見せろだって手なんぞ出しやがって……チェッ!」
帯までしめ直すと、みどりがやや気の鎮まった調子で、
「何か用だったの?」
ときいた。
「あなたもしかしたらこの次の左翼劇場見に行くかしらと思って――私のところに割引で切符を買うついでがあるから訊きに来たんです」
「まあ――ありがとう。それでわざわざよってくれたの?」
「近いもん」
「そりゃそうだけれど――私、うれしいわ。是非仲間へ入れて下さい! お金わたしておきましょうか?」
「切符とひきかえでいいわ」
「……じゃ、私ハンド・バッグとって来なけりゃ……ここいらで待ってて下さいな」
「――大丈夫なの?」
「平気さ」
ミサ子が洗面所の前に立って待っている。みどりは堂本兄弟商会という字が廊下のこっちから見える程ひろくドアを開けっぱなしたまま、事務室内へ姿を消した。
十五
その二十日ほど前から、日本中の新聞が満蒙事変を喧しく報道して、号外の鈴の音がミサ子たちの働いている××○○会社の窓越しにまで聞えた。奉天を占領したとか、独立守備隊がどこそこへ進軍したとかいう記事が一号活字で新聞に出ても、××○○会社の若い平社員たちは一般に冷淡で、疑わしそうにジロジロひろげた新聞を読みながら、
「おい、社はこれでいくらぐらい儲ける魂胆なんだろうな」
などと云った。
「俺たちに何のかかわりあらんや! だ」
「〔六十二字伏字〕」
「〔六十七字伏字〕」
××○○会社の女事務員たちも、直接この事件については冷やかな態度で、格別みんなの話題にものぼらなかった。ぼんやりとではあるが、〔十五字伏字〕投資している資本家どもの利益になるばかりだと分って、新聞の空騒ぎに対して一般的な反感があった。
昼休みのとき、濠端を四五人でぶらぶら歩いていたら
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