便乗の図絵
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)掴《つか》んだ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もうしん[#「しん」に傍点]まではいでしまった
−−
便乗ということばが、わたしたちの日常にあらわれたのはいつごろからのことだったろうか。
日本の天皇制権力が満州・中国と侵略をすすめて、世間の輿論も、議会の討論も邪魔と考えはじめてから、日本全国には政治がなくなって強権の専断ばかりになった。その時分、翼賛会ができた。議会は政府案に決して反対しないという条件の翼賛議会になり、侵略戦争賛成、種々の人権抑圧法賛成、いくらでも軍事費をつかうこと賛成と、侵略戦争のためのロボット議員が推薦候補で議員になった。便乗という卑屈なくせに利慾のまなこは八方にくばっている言葉が生れたのはその頃のことであった。
ちょうど便乗という言葉がはやりはじめた時分、これまで東京の街々にあふれていたやすいタクシーもだんだん姿を消しはじめた。どこかで落ち合った知人が自動車をもっていたりすると、君、どこか都合がいいところまでのって行ったらと自動車をもっている人は友人にそうすすめたし、すすめられた友人は、じゃ、便乗させて貰うか、とのって行った。
こんな場合につかわれた便乗は、そのころはやり出した便乗ということばの、最も正統な、また最も素朴な使いかたであった。便乗という言葉は、バスにのりおくれまい、という表現と前後した。翼賛議員になる時勢のバスにのりおくれまいとあわてる人々の姿をからかい気味に形容したことばであった。
ところで、便乗という言葉はひところあれほどひろくはやったが、真実のところでは、日本の人口のどれだけの部分が、その人たちの生活の現実で時勢に便乗したのであったろうか。便乗という言葉が日本の津々浦々にまではやったのにくらべて、現実に便乗してしっかり何かの利得を掴《つか》んだという人の数がすくないのに、むしろびっくりしはしないだろうか。
戦争がだんだん大規模になって行った時期、軍需会社は大小を問わず儲けはじめた。ひところは小さい町工場でも人をふやして、下受け仕事に忙しくなった。けれども、一つ町内でそういう風に戦時景気に便乗していくらかでも甘い目を見た家の数と、毎日毎日、日の丸をふって働き手を戦争へ送り出し、そのために日々の生計が不安になっていった家の数をくらべて見たらどうだったろう。どんな町でも村でも、目立って景気がよくなったと見えるところは十軒たらずで、のこった数百軒、数千軒の家は、軍需景気につれての物価高にじりりじりりとさいなまれはじめて来ていたのが実際であった。だから、戦争に便乗して、そのとき一時にしろ儲けたのは、ほんの一部の者であり、その一部の者というのは、そのときがたがたになっていたにしろとにかく工場と名のつくものをもち、あるいは、ぼろ工場を買うことのできるだけの借金のかたにする何ものかをもっていた者だったことを意味するのである。
労働力一つを生活の手段として生きている勤労者の生活が、あの時分いくらかよくなったように見えたのも、束の間のことであった。たちまち物価は給料に追いついたし、勤労動員が強められてからの働く男女に、どんな戦争便乗の利得があったろう。勤労動員で軍需工場に働かされたすべての男女は、その数千万の眼で、恥も知らないうまいことをしているのはすべて自分たちより上級者でしかないこと、日本を勝たすために、あくまでがんばれと命令している者であることを、はっきり見たのであった。
やがて、せまい町の裏通りにまでモーターの音をさせていた便乗景気に、淘汰が行われて来た。企業整備という名でいわれたその淘汰は、喘ぎながらも便乗していた街の小工場、小ブローカーをつぶして、より大きい設備と資本に整備した。戦争が進むにつれ、規模が大きくなるにつれ、戦争で直接儲けている日本の資本形態は、より大資本の形にすすみ、そのことでより便乗利潤の独占に進んだ。
毎日朝から晩まで働いて、まともに暮そうと努力している人民層の生活は、日々にきりつまりつつあった。男がいなくなったこと、女がみんな働きに出てゆかなければならないこと、しかも女は男なみに働いても女だということから決して男と同じ収入は得られない実状から、日本の人口の九割以上は、ほんとに戦争の負担にひしがれて生活とたたかいつつあった。こういう実直な、いわれるままに「聖戦」を信じて夫をおくり息子たちをおくり、その死に耐えた人々の誰が、何に便乗することができたろう。はじめの頃は、自分たちの住んでいる街や村のまわりにも、何軒かは便乗景気のところもあって、何処やら努力のつぐのいは、身近いところにちらついていそうであった。しかし、小資本の企業がバタバタ整理され
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング