だとか、そこに責任があるというのでなく、地主、軍需生産者、旧軍人の権力であるファシズムの権力を、動揺的な小市民層、学生などがうけ入れたということが今日のドイツの人々をあれほど悲惨にし、食べるものもない、着るものもないという状態に陥れた。それはどういうことであったかといえば、ドイツの第一次大戦後の社会的動乱期に小市民的な人たちが、あの時のドイツの社会主義を民主的に徹底したものにすることをおそれ拒み、そうかといってもとのままの資本主義にもこりたと迷ってとうとうナチスにひっかかったのです。ナチスには外国の独占資本、反社会主義的であり反人民的な資力が投資しました。これはジュール・ロマンの「世界の七つの謎」にはっきりかかれています。そして、ドイツの迷っている人達を愛国心だの復讐心などに統一して、そして、ヤング案に反対する、農村では地主が納税に反対するというような、きわめてうまい人心収攬のきっかけ、目先の利益にくらまされる人々の気分をヒットラーが掴んでナチスはああいうように擡頭しました。そうしてドイツの人民は自分の運命というものをナチスのためにふみにじられるいとぐちを開いてしまった。この事実を私どもはよく理解しなければならないと思います。日本の民主化のこういう片輪な状態、云いかえると露骨な妨害によって歪められようとしている日本の民主化の事情において、今日私どもの文学の問題は直接どういうふうであるかというと、日本の民主主義文学の課題は、日本民主化そのもののすべての革命的課題と一致したものであります。ファシズム反対と平和のためのたたかいの諸相は日本民主主義文学のテーマであるし、人民の民主的能力の典型としてのソヴェト社会に対する支持もそのテーマの一つです。それらの一つとして古い私小説から社会小説への解放があります。ブルジョア文学の私小説では自我というものを問題にして来ました。ちょうど『近代文学』の人達が敗戦ののあとすぐ日本文学における「自我」の問題をとりあげたのも一例です。日本にはブルジョア民主主義が確立されなかったから、ブルジョア民主主義社会における意味での「自我」、「個」というものを確立させて、それからより社会的にひろい人民的な民主主義に発展させてゆくべきものだというふうに、自我の確立が、個人主義的なブルジョア的な立場で主張されました。それも一九四五年の秋から四六年のはじめぐらい
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