労動員された女学生たちの稚い心にさえ何かのニュアンスで生きていた感情であった。
 だから、一九四五年八月十五日、日本のファシズム権力が無条件降伏しポツダム宣言を受諾したのち、「聖戦」が帝国主義の侵略戦争であったといわれても、すぐそれを納得しかねる感情が大部分の人民の心にひそんでいる。その心持は今日も決して根絶していない。天皇の名において、これほどの犠牲を費した戦争が全部国際悪であり、人民の運命を破壊したものとは、いくら何でも信じきれない思いがある。悪い戦争ということになったのは、敗けた結果の批判ではないだろうか、という考えがある。同時に一方では、これまで満州ばかりを戦場にしていた日本人すべてが、はじめてわが顔をやく焔として近代武器による戦争の惨禍を実感した。そして、戦争のこわさを身にしみている。
 この入りくんだ社会感情のいきさつこそが、今日、わたしたちを渦にまきこんでいる戦争挑発の肥沃な温床である。さもなければ国際裁判の公判廷で、東條英機がどうしてあのように卑劣ないいまわしで今日もなお戦争の責任を否定し、確信ありげにファシズムの宣伝をしたろう。このジェスチュアは東條自身にとって、一層
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