のことを出来したのは誰の力であるとその当時の人民は教えられたろう。それはそれまで人民の主人であった公方《くぼう》と藩主とをはっきり臣下とよぶ天皇であり、その制度であると示された。一天万乗の君の観念はつくられ、天皇の特権を擁護するために全力をつくした旧憲法が人民階層のどんな詮索もうけずに発布された。当時の笑い草に、憲法発布ときいた江戸っ子が、何でエ絹布のはっぴだって、笑わせるねえ、はっぴは木綿にきまったもんだ! と啖呵をきった笑話がある。
 当時の人民層がおもっていた社会と政治感覚のこんな素朴さ。しかし、官員万能であり、時を得た人、成り上がりが幅をきかしても一般には思うにまかせない貧富の差、生活向上をねがう人間の権利に対する機会の不平等などは、平等という言葉が感情に植えられただけに、つよく意識された。国内政治の現実にその胸の思いを実現してゆく人民的な自由を持たず、そのような教育がどこにもなかった時代、人々はめいめいの生涯のきまりきった小ささに飽き飽きした思いを、せめては日本が戦争に勝つという景気よい機会に放散させるのが一つの心ゆかせであった。国内の人民生活の不如意、逼迫を解決するためにも、せまい国土をもった日本は外へひろがらなければならないと教えられた。そして小さい日本が大国と戦争して勝ち、つよくて金のある列強と対等のつき合いをし、応分の植民地分割にあずかるということに国内の現実からは消えた、四民平等の夢をつないだのであった。
 事実、戦争がはじめられたとき、日本の人民は、はじめて権力にとって無視されないものとなった。アジアにおける資本主義国として、西欧資本主義の利益探求の方向に同調し、その範囲で日本の資本主義を強化してゆくために、兵としての人民は重要な軍需消耗品である。自身の繁殖力によって消耗を自動的にカバーしてゆく消耗品である。日ごろは人民のつつましい日暮しに触れるところのない天皇をはじめとする雲上人、大臣、大将、代議士たちなどが、戦争となると、いつも離れて生活しているだけに、一層効果的な好奇心・感動をもって人民にこまごまとふれはじめた。「一匹の軍馬よりもやすい兵卒の命」は雀躍して皇国に殉じることを名誉と感じて疑わないように。妻子父母は、国のために、不幸を名誉としてよろこばなければならない。宮様と同じ隊であった息子が、前線で戦死したことを息子の余栄として、皇后の巻
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