ぐそれが作品化されてゆくというのではなく、そのようにして変化してゆく生活の感情が、日本の文学の全歴史とそれぞれの作家の文学的経歴とに多岐多様な作用を及ぼして行って、その結果として文学は種々の変化と飛躍とを示してゆくわけなのである。
「炭」という一字に対する今日の感覚の変化からみても、作家が一般国民としての生活感情のうちに自身を織りこませざるを得なくなって来ていて、従来のように知識人的、或は職業人的ポーズの枠内に止っていられなくなっている現実に偽りはないと思う。小市民風な小さい個人的主観的解決は、炭の問題に対して力をもっていないと同じく、社会的現実の矛盾の全般に対して今日はその力のもつ限界を明かにされているのである。文学は、小市民的な身辺小説の歴史的な塒《ねぐら》から、よしや今宵の枝のありかを知らないでも、既に飛び立たざるを得なくなって来ている。
国民文学の声々は、それらの飛び立った作家たちが、群をはなれぬよう心をつかいつつ而もその群の範囲ではめいめいの方向で羽ばたいている、その歴史的な物音といえるのではあるまいか。
国民文学というものは、その字が語っているとおり、国民の文学であり、
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