国民の文学であるということはとりも直さず国民生活の日々に経つつ展開されてゆく生活の文学であるという本質は、一見全く明瞭のように思える。それにもかかわらず、国民文学という題目をかかげて作家たちが語るとき、その感想の大部分はどうして、そのわかりやすく自然な文学の本質に立って自身の成長を願う言葉としてあらわれず、何か文学の外の力、例えば政治への協力への歩み出しという面の強調に熱心なのだろう。
 政治と文学という二つの質の異ったものが真に協力し得る場面は、国民の現実における生活の内にしかあるまい。それも、あなたはそちらから、私はこちらからという工合に国民生活の内部で政治と文学とが両方から歩みよるというような形式的な関係ではなく、国民の一人一人の生活の運転の血肉として、その生活意欲の表現としての政治と文学とが各人の中に相互的統一におかれたとき、言葉の偽りない意味での政治と文学との協力がいわれるのだと思う。そして、このことはやさしいことではない。将来の永い永い見とおしに立って、国民の政治的成長への期待とともにのみ語り得るのである。それ迄の歴史的な幾波瀾を凌いだ社会史的成長の彼方に期待されることなの
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