平坦ならぬ道
――国民文学にふれて――
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)塒《ねぐら》
−−

 この頃は「国民文学」という声がいろいろな場面に響いていて、日本文学の明日の姿として或る意味では文書的な性質をもつ方向づけのような印象を与えている。けれども、どういうのが国民文学であるかという点になって来ると、各人各説であって、ともかくそれは現実を超えた文学でなくてはなるまい、という説(青野氏)或は偽せものから本ものを見わける文学という論があり、或は万民の心をつかむ文学を、という要望も国民文学の声にこめられている。
 日本文学者会という新しく組織された団体も、新たなる国民文学建設を意企していることは明らかであるけれど、その組織の中心的な構成分子をなす作家の顔ぶれを見ても決して単一ではなく、その会のメンバーとなった作家たちが新聞の文芸欄によせたその動きに関する感想も、どちらかというと皮相的なまとまらないものであった。今日までの日本文学の歴史と、その歴史の中にあって成育して来た自分たち作家一人一人の文学業績の内部から追求した発展の足どりとして、それ等の所感は書かれていなかった。いずれも、時代の急転を切迫して肌に感じ、作家も今までのようにしている時代ではない、という感じにつき動かされ、その動きを今日にあって最も一般的な形である団体のくみたての方向に結びつけて行った過程であると思える。
 日本の社会生活の変化は、実にどんな人の身にも及ぼしていて、現在の日本に生きている者は只の一人もこの空気の外に存在していることは出来ない。日本が世界史的な変転の時期にさらされている現実は、極めてリアルに私たちの日常に映っていて、感情と心理の翳とは複雑である。
 このような現実を土台として、文学が変化するのは当然であり、一人一人の作家の内部に立ち入ってみても、それぞれの心は、決して去年の心のままではないのだと思う。「炭」という一字は、かつて大多数の文学者にとって何事でもなかったにちがいない。どんな反応もその精神に目ざませなかったと思う。ところが、この初冬、「炭」ときいて何かの生活的感覚に刺戟をうけない作家が唯一人でも日本に在るだろうか。
 文学が変化してゆく現実の底には、このような社会的な生活の感覚の推移、変化がその根本の動力となってゆく。文学の題材としてすぐそれが作品化されてゆくというのではなく、そのようにして変化してゆく生活の感情が、日本の文学の全歴史とそれぞれの作家の文学的経歴とに多岐多様な作用を及ぼして行って、その結果として文学は種々の変化と飛躍とを示してゆくわけなのである。
「炭」という一字に対する今日の感覚の変化からみても、作家が一般国民としての生活感情のうちに自身を織りこませざるを得なくなって来ていて、従来のように知識人的、或は職業人的ポーズの枠内に止っていられなくなっている現実に偽りはないと思う。小市民風な小さい個人的主観的解決は、炭の問題に対して力をもっていないと同じく、社会的現実の矛盾の全般に対して今日はその力のもつ限界を明かにされているのである。文学は、小市民的な身辺小説の歴史的な塒《ねぐら》から、よしや今宵の枝のありかを知らないでも、既に飛び立たざるを得なくなって来ている。
 国民文学の声々は、それらの飛び立った作家たちが、群をはなれぬよう心をつかいつつ而もその群の範囲ではめいめいの方向で羽ばたいている、その歴史的な物音といえるのではあるまいか。
 国民文学というものは、その字が語っているとおり、国民の文学であり、国民の文学であるということはとりも直さず国民生活の日々に経つつ展開されてゆく生活の文学であるという本質は、一見全く明瞭のように思える。それにもかかわらず、国民文学という題目をかかげて作家たちが語るとき、その感想の大部分はどうして、そのわかりやすく自然な文学の本質に立って自身の成長を願う言葉としてあらわれず、何か文学の外の力、例えば政治への協力への歩み出しという面の強調に熱心なのだろう。
 政治と文学という二つの質の異ったものが真に協力し得る場面は、国民の現実における生活の内にしかあるまい。それも、あなたはそちらから、私はこちらからという工合に国民生活の内部で政治と文学とが両方から歩みよるというような形式的な関係ではなく、国民の一人一人の生活の運転の血肉として、その生活意欲の表現としての政治と文学とが各人の中に相互的統一におかれたとき、言葉の偽りない意味での政治と文学との協力がいわれるのだと思う。そして、このことはやさしいことではない。将来の永い永い見とおしに立って、国民の政治的成長への期待とともにのみ語り得るのである。それ迄の歴史的な幾波瀾を凌いだ社会史的成長の彼方に期待されることなの
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング