である。
今日響いている国民文学の声にある政治への文学の協力は、従って、それよりずっとずっと手前の、現在の日本をこめた世界の大多数の社会がおかれている矛盾、混乱、撞着の中でいわれているのであり、その実際条件は、当然のこととしてその呼び声にも様々の過渡的な制約を加えざるを得ない。
日本の今日の文学が、国民文学という響は総量的である声の前に一層まとまりない自身の姿を示していることには、一朝一夕でない理由があると思う。
小市民的な発生の歴史をもった日本の純文学というものが、その文学の世界の核心であった主観的な自我のよりどころを揺がされはじめたのは凡そ今から十五年程前からのことであった。この時期に、日本の文学には、第一次欧州大戦後の社会事情の大変動につれて、新興の文学運動がおこり、従来の諸流派とは全然異った文学の世界を示しはじめた。これまでの純文学が一個人内面的経緯を孤立的に追求して来たのに対して、新たな文学は、この社会に一定の関係をもって生活し歴史とかかわりあっている人間群の悲喜をその文学の内容としようとした。そして、その作品にあらわれる主人公たちがそれぞれ多数のものの集約的な人格化であり、歴史の局面へ積極的に働きかけようとする時代の典型であるという文学の世界の現実で、広汎な読者の生活に結ばれてゆくものであろうとした。
この文学の動きの方向で、日本の近代文学の自我は初めて複合的な集団的な歴史的に動く自我へ成長発展する可能を示されたのであった。ところが、日本独特のせわしく迅い時代の推移は、十分その動きを成熟させないうち、その文学の方向をとざすこととなった。新しい文学そのものが自身の未熟さを脱し切れないまま発育の方向をかえなければならなくなったのみならず、その文学の動きが継続していた十年の間、依然旧態にとどまって、集約的自我に対抗し、個的な自我を純文学の名において固守して来た作家たちも、本質的展開のないまま、更に一層萎靡した自我を抱いて、満州事変の開始された日本の現実の中につき放たれたのであった。
当時の文学的混乱がどんなに激しかったかは、今更くりかえす必要もなく、私たちの記憶に新しいことである。
民衆の文学という声があげられたのは今日から凡そ三年ばかり前のことだが、その呼び声は、主として従来からの所謂純文学作家・評論家たち、即ち新しい文学が小市民的な個的な自我を、より多数・広汎な綜合的我の歴史的登場のうちに解放し成育させようとした期間、それに対して、種々な文学的表現の下にやはり個的な我を主張しつづけて来た人々によってあげられたということは、今日の国民文学の声の発生の場所と思い合わせて実に意味ふかく考えられる。
当時いわれた民衆の文学の本質の特徴は、その文学の世界をつくり出す因子として、その文学の運命の担いてとしての民衆生活と作家の内的世界との統一のことはいわれないで、これまでそれ等の作家・評論家たちが、一握りの知識人として庶民のくらしとは隔絶した日常のなかで語り書きして来た文学的所産の単なる読者として、その消費者、購買者としての多数人へ示された関心であったという事実である。民衆の文学が、わかりやすく書くとか、民衆が浅草の漫才を見て笑っている顔を見よ現実の批判精神などを彼らは必要としていない、という風に云い出された所以もそこにあった。
社会的要素の導き入れの要求から長篇小説のことがいわれ、それは作品行動でも十分つきつめられないうちに生産文学にすりかわり、それに対しておこった文学の文学性の擁護の動きと併行して、今や国民文学の声があまねく聞えている事情である。
この三四年間、日本の文学の面は何と忙しく波立ちつづけて来ただろう。国民文学という声が起った今日の日本の社会が当面している世界史の局面は、明らかに画期的なものである。それ故、国民文学の翹望は、近代の日本文学に一つの時期を画す性質をもっているということも一応肯定されるが、社会の歴史のいかなる高まりもそれ以前の数々の必然からもたらされるとおり、文学におけるその声が或る画期的な意味をもっているという一つの事実は、その事実の内に、あらゆる従前からの諸問題の経過の本質を含有して来ているという事実を抹殺するものではない。具体的な発展は、実に、そのようにして内包されている諸要因を、率直に作家自身、自身の課題として自身の内面からとりあげて吟味し直してゆくところからしか期待し得ないのである。
国民文学という声の中には、嘗て民衆の文学を唱えたとき、自身たちの文学的要素の歴史的な吟味に向うよりも、民衆と文学との関係では文学を外からの教化資料とし扱おうとした考えに結びついて行った文学放棄の態度も自然の成りゆきとして加わっているわけであろう。そこによりたやすい血路を求めて、真の骨身を削る煩悶
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