、より多数・広汎な綜合的我の歴史的登場のうちに解放し成育させようとした期間、それに対して、種々な文学的表現の下にやはり個的な我を主張しつづけて来た人々によってあげられたということは、今日の国民文学の声の発生の場所と思い合わせて実に意味ふかく考えられる。
当時いわれた民衆の文学の本質の特徴は、その文学の世界をつくり出す因子として、その文学の運命の担いてとしての民衆生活と作家の内的世界との統一のことはいわれないで、これまでそれ等の作家・評論家たちが、一握りの知識人として庶民のくらしとは隔絶した日常のなかで語り書きして来た文学的所産の単なる読者として、その消費者、購買者としての多数人へ示された関心であったという事実である。民衆の文学が、わかりやすく書くとか、民衆が浅草の漫才を見て笑っている顔を見よ現実の批判精神などを彼らは必要としていない、という風に云い出された所以もそこにあった。
社会的要素の導き入れの要求から長篇小説のことがいわれ、それは作品行動でも十分つきつめられないうちに生産文学にすりかわり、それに対しておこった文学の文学性の擁護の動きと併行して、今や国民文学の声があまねく聞えている事情である。
この三四年間、日本の文学の面は何と忙しく波立ちつづけて来ただろう。国民文学という声が起った今日の日本の社会が当面している世界史の局面は、明らかに画期的なものである。それ故、国民文学の翹望は、近代の日本文学に一つの時期を画す性質をもっているということも一応肯定されるが、社会の歴史のいかなる高まりもそれ以前の数々の必然からもたらされるとおり、文学におけるその声が或る画期的な意味をもっているという一つの事実は、その事実の内に、あらゆる従前からの諸問題の経過の本質を含有して来ているという事実を抹殺するものではない。具体的な発展は、実に、そのようにして内包されている諸要因を、率直に作家自身、自身の課題として自身の内面からとりあげて吟味し直してゆくところからしか期待し得ないのである。
国民文学という声の中には、嘗て民衆の文学を唱えたとき、自身たちの文学的要素の歴史的な吟味に向うよりも、民衆と文学との関係では文学を外からの教化資料とし扱おうとした考えに結びついて行った文学放棄の態度も自然の成りゆきとして加わっているわけであろう。そこによりたやすい血路を求めて、真の骨身を削る煩悶
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