野蛮と虚偽から理性を守り、また守るために抵抗する精神」に目醒め、朝田医院をとび出した志摩が、やがて「どうもいままでのやり方は青年の論理だった。爛熟した洞察が必要だ」と思いはじめる。「今までよりずっと大人になるのだ、そして勇気をもち、明白な判断を少しもこだわらずに、キチンとしてゆく、無駄な神経をつかわず」そして、「実力をつける」ために、その主人はつかまっているがかつて飛び出した朝田の医院へ、新規蒔直しに何もかもやってくれという夫人の求めに応じて戻ることにする。その夜妻が姙娠しているときかされて、新鮮なショックを感じる。「そのとき彼の耳は既に、医者の耳でなく父親の耳であり、人間の耳であったのだ。彼は長い間の難解な問題が思わずここに釈然とした思いがした」ところが、この作品のヒューマニズムの帰結なのである。
「あらくれ」に同じ作者によって書かれている自分の家系の物語、愛子物語をあわせ読むと、舟橋氏のヒューマニズムが一般人間性の観念にあやまられ、血肉の情に絡まって今日、どのような洞に頭を向けているかが実に明瞭に分るのである。
このハッピー・エンドのヒューマニズムは、心ある読者に鋭い疑問と憤り
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