、それらがこの作者の特徴である色彩の濃い、体温のたかい感覚でかかれているので、たとえば「労働にまけるな。それが労働者の運命なんだよ」という川原の言葉を思い出してがんばろうと思う駒吉の気持も、気持としてのところに止まる感じである。この作品で作者がほとんど我知らず溢れさせている色調と感覚とは、年来の読者に馴染ぶかいものであるだけに、これからの成行が注目されるのである。

        努力の作品
          石川達三氏の「日蔭の村」

 府下西多摩郡の小河内村が東京市の貯水池となることに決定してから、今日工事に着手されるまで六ヵ年の間に、小河内村の村民の蒙った経済的・精神的な損害の甚だしさは、こういう場合にあり勝で、謂わば既に手おくれになってから一般人の注意をひくようになった。悲劇が終結したとき、はじめてそれが悲劇であったことが第三者の心の中に活きて立ち上って来るという現実の一つの例である。

 石川達三氏が『新潮』九月号に発表された「日蔭の村」は、小河内村の住民の永年に及んだ窮乏化と受けた偽瞞と最後の離散とを記録した小説である。一般の読者に漠然とながら用意された心持がある今日であるから、作者の努力は十分に納得される条件をもっている。石川氏という作家の資質にあった題材でもある。
 村民の経済事情が悪化し剥脱されてゆく過程、市会議員の利権あさり、官僚的冷血、自然発生的に高まりやがて無気力な怨嗟《えんさ》にかわってゆく村民の心持の推移などを、作者は恐らく実地にあたって調査した上で書いているのであろう。龍三や安江などの性格化、シチュエーションには、「蒼氓」でこの作者の示した好みの再現が感じられる。石川氏の筆致は、動きがつよくあってしかも奇妙に立体性、色や音がない。そういう大衆ものの持つ特徴が混りあいながらここでは作者の真面目な調べの力で最後まで読者をひいてゆくのである。

 現代社会における都会と農村との関係が、複雑な矛盾に充たされていることは、作者もいっているとおり、様々の形でいくつかの「日蔭の村」をこしらえつつある。農村と都会との分離、対立は文化の面だけでさえ傷ましい裂け口を深めつつある。農村の人々が都会人に対する感情には実にひとくちにいいつくせぬものが籠っているのであるが、それならばといって、都会の住民の九十パーセントは、今日果してどういう現実に生きているので
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