あろうか。
そこには望まずして対立におかれる苦しさの切実なものがある。「日蔭の村」の作者は、この小説の最後を、「都会文明勝利の歌、機械文明のかちどきの合唱」が「小河内の閑寂な昔の姿」を打ちくだいていると結んでいるのであるが、役人の仕打ちを怨み、東京市民を怨みつつ資本主義的な力に踏みにじられる錯綜を記録的に各面からとり上げようとしている作品の結びとして、これは必要なだけの深さと重さとに不足している。長篇が愈々最後の一行と迫ったとき作者は亢奮する。そのペンの勢いで結ばれすぎている。この題材が真にヒューメンな現代の共感で生かされるためには、作者の眼が「日蔭の村」をくまなく観察すると同時に、近代大都市の只中にある様々な「日蔭の町」へ、その社会感情をくばらなければならなかった。この作品で、都会が農村に対する一般的な破壊力としてだけ立ち現れる旧套にとどまったのは遺憾である。少くとも作者の洞察の前では、水道を切られている日蔭の町の居住者達の存在が社会的相関的に見とおされている上で、農村の蹂躙が語られるべき現代であると思う。
一つの宿題
舟橋聖一氏の「新胎」
「新胎」という舟橋聖一氏の小説(文学界)を読みはじめて、ああ、これはいつぞや『行動』か何かで読んだのに似ていると思った。編輯後記を見たら、旧作「濃淡」に骨子を得云々とあり、作者もそのことを附記されている。
旧作が生憎手元にないので比較して作者の新たな意企や技術の上での試みを学ぶことが出来ないのは残念である。「新胎」について技術的な面で感じることは、現実の錯雑の再現とその全体の確実性の強調として、作品の上で、科学的用語や保険会社の死亡調査報告書、くびくくりの説明図などに場所を与えすぎることは、寧ろ却って読者の実感を白けさせる危険があるのではないかということである。探偵小説はしばしばこういうリアリティーの精密そうな仮普請をする。それが科学的に詳細であり、現実らしい確実さがあればある程、読者はその底にちらつくうそへの興味を刺戟される。舟橋氏が、この「新胎」というある意味での現代図絵に、そういう面白さ[#「面白さ」に傍点]も加味しようと意識されたのであれば、やはりその面白さ[#「面白さ」に傍点]の試みは、作品の真のテーマと游離した結果になっている。この小説で作者の語ろうとするテーマは、朝田医
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング