院主及びそれをとりまく一群の現代的腐敗、堕落を逆流として身にうける志摩の技術的知識人の人間的良心、能動性の発展の過程に在ることは明らかである。単なる事件、人事関係、デカダンスの錯綜追跡の探偵もの風な興味が主題ではないのである。真面目な意図をもつ小説にどうにかして目新しさ、面白さの綾をつけようと、作者の努力をついに逸脱させるまで暗黙に刺戟しているものを、文学の大局から何と見るべきであろう。読者にとっても作者にとっても、新しくないのに未だ本当の解答は出ていない一つの大きい宿題である。
舟橋氏の技術的知識人としてのヒューマニズム、能動性の展開の方向がこの作品で読者の関心の焦点となる所以は、二三年前、雑誌『行動』によって当時の文学的動向に能動性、行動主義を提唱したのが、ほかならぬこの作品の作者であったからである。そして、その主張の作品行動として「濃淡」が発表されたのであったが、やがてその創作と提唱が中絶して、今日に至ったのである。
二年を経て現れた今日の「新胎」は、ある意味でハッピー・エンドの小説である。「冷酷聰明な科学者の態度」から「技術的知識人の生活と医学的ヒューマニズムのために」「野蛮と虚偽から理性を守り、また守るために抵抗する精神」に目醒め、朝田医院をとび出した志摩が、やがて「どうもいままでのやり方は青年の論理だった。爛熟した洞察が必要だ」と思いはじめる。「今までよりずっと大人になるのだ、そして勇気をもち、明白な判断を少しもこだわらずに、キチンとしてゆく、無駄な神経をつかわず」そして、「実力をつける」ために、その主人はつかまっているがかつて飛び出した朝田の医院へ、新規蒔直しに何もかもやってくれという夫人の求めに応じて戻ることにする。その夜妻が姙娠しているときかされて、新鮮なショックを感じる。「そのとき彼の耳は既に、医者の耳でなく父親の耳であり、人間の耳であったのだ。彼は長い間の難解な問題が思わずここに釈然とした思いがした」ところが、この作品のヒューマニズムの帰結なのである。
「あらくれ」に同じ作者によって書かれている自分の家系の物語、愛子物語をあわせ読むと、舟橋氏のヒューマニズムが一般人間性の観念にあやまられ、血肉の情に絡まって今日、どのような洞に頭を向けているかが実に明瞭に分るのである。
このハッピー・エンドのヒューマニズムは、心ある読者に鋭い疑問と憤り
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