あの批評を全体として見れば、作家が作家に向っていうものとしては随分変なものであった。何だか役人ぽい。そして、大旦那っぽい。小説をかくものには刑務所もためになるとか、自分が「機嫌を直した」とか。ああいう程度の言葉が、褒めたような印象を誤って一般に与えるところに、謂わば今日の文学の時代的な弱さがかくされているのである。
 中本さんが昨今書かれるものには、大衆の生活と発展というものを見る角度、労働というものを見る角度に、独特の見解が示されて来ているのであるが、「白衣作業」でも、主題はやはりその基調の上に立てられている。ある作品が、題材的には極めて具体的であるが、主題は必ずしも客観的な現実をとらえ深められているのではない場合、作品の歴史的真実性は減殺されざるを得ない。特に、この種の作品は、作品の出現の本質に、その点の統一をきびしく求める因子をふくんだものなのである。

 一方に池田小菊氏の「札入」(改造)がある。他方に尾崎一雄氏の「暢気眼鏡」(文芸春秋)がある。その中央に、この二人の作家に直接間接影響をもっている志賀直哉氏の生き方と芸術的境地とを置いて考えると、池田氏、尾崎氏、それぞれ志賀的完成をあばいてもっと生々しく自分を確立しようという努力の途上で、今日どんな方角へ出て来ているかという点が真面目に考えられるのである。「札入」の作者は「万暦赤絵」がその経済的知的貴族性から持っていない俗塵、世塵を正面から引かぶろうと構えているらしい。しかし、作者は自身の気構えのつよさに現実の苛烈さを錯覚しているところもある。志賀直哉氏の人為及び芸術の魔法の輪を破るには、志賀氏の芸術の一見不抜なリアリティーが、広い風波たかき今日の日本の現実の関係の中で、実際はどういう居り場処を占めているものであるか、何の上にあって、しかくあり得ているかを看破しなければならないのである。志賀氏から縦に一歩、歴史的に一歩出なければならないのであると思う。

 佐藤俊子氏の「残されたるもの」(中央公論)はこの作者の感覚が横溢していて、帰朝当時『改造』に書かれた作品より、地があらわれているともいえる。作者が、駒吉という少年の感情の動きの中に暗示し、希望しようとしている勤労者としての健全性の要求もわかるのであるが、十五歳の少年の半ば目ざめ、半ば眠っている官能的な愛、その対象を母に集注している心持、素朴な原始的な反抗心
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