る。
それらの作品は、ではどれも実にいきいきとした芸術的効果をおさめていただろうか? 大衆は、作品の中にほんとに俺たちの前衛を丸彫りに見出したか?
公平に批判して、そうだとはいえない。変ではないか。作品の中に引用されているビラ一枚だって、偽《にせ》ものはないんだぞ。みんな、闘争の現場から貪慾に集められたものだ。ストライキの発端、過程、これにも、こしらえたところはない。
だのに、なぜ書かれた小説はどれも面白いというわけに行かず、作中の人物は、大衆から「どれでも同じようだ。人間が書かれていない」といわれるようなものになったのか。
第三回大会は、この点に力をこめて自己批判した。理由には勿論階級闘争の激化につれて加わる運動の非常な困難さがあげられた。一九三〇年は、かつて労農党華やかなりし頃とは別な世の中である。大衆は革命化している。が、ほんとに質のよい、永続的なプロレタリアートの運動は、一つのストライキ、一つの農民闘争の底に沈められている。その本体を把握し、ブルジョア官憲によって切りこまざかれる運動を全線の展望から理解し、しかも芸術品としてまとめることは、異常にむずかしい。
しかし、
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