の動機への肯定的尊重となり、その結果文学批評として本質的な客観性を失い、評価の力を失ったということは、避けがたい必然の成行であったと思う。
 批判の精神という声さえ、憎悪をもって聞かれた当時の心理も、こう見て来れば肯けよう。批判の精神が人間精神の不滅の性能であることやその価値を承認することは、とりも直さず客観的観照の明々白々な光の下に自身の自我の転身の社会的文学的様相を隈なく曝すことになり、それは飽くまで主観的な出発点に立っている精神にとって決して愉快なことであり得ない。のぞましいことでもない。日本文学の歴史において一つの画期を示したこの自我の転落は、当事者たちの主観から、未来を語る率直悲痛な堕落としては示されず、何か世紀の偉観の彗星ででもあるかのような粉飾と擬装の下に提示され、そこから、文学的随筆的批評というようなものも生じた次第なのである。そして、純文学の悲劇は、自我をより強力な文学以外の力に托さなければならなくなったことから、やがて文学を語るに、文学の外のところから云い出すということにもなった。嘗て純文学の精神の守護であった芸術性はとんぼ返りをうって、鬼面人を脅かす類のものに転化
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