ロレタリア文学との対立の時期に於ても、純文学の自我は、その自我の歴史的な成長の過程として、よりひろい動的な社会の客観的現実としての関係の中に自我を見る目を育てようとはせず、反対に個性という自我の一つの属性の範囲に人間の自我の可能性をちぢめて、その個性の芸術的完成の意味での芸術性のみを強調して来ていたのであったから。その必要に立って、自我の拡大のための重大な消化機能である現実的な批判精神というものは拒否して来たのであったから。
 社会情勢の波瀾が内外の圧力で純文学末期の無力な自我から最後の足がかりを引攫おうとしたとき、そのような苛烈な現実を歴史的な動きの中に把握してゆく精神を既に喪っていた自我がそれぞれのとりいそいだ転身の術によって自ら歴史の中に立つ気力を失った自我を託すべき地盤をさがし求めた。急速に移り動く何かのよりつよい力に自我の破船を結びつけなければならなかった。その力が、どのようなものであるかということを省察する責任を自分に向って求めることはもう止められた。人間的自己の尊重の精神は我から捨てられて、批評はそれぞれのそのような文学以前の現象、又そのような事情から発する雑多な文学現象
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