ていなかったことも現れているのである。
 プロレタリア文学時代の文芸批評にあった以上のような未熟さは、当然その発展成長のための強い批判を必要としたのであったが、非常に興味あることは、当時その理論的未熟な点に向って行われた批判は、常にその文学の本質に対立する社会的層から発せられていたという事実である。プロレタリア文学はその創作方法において大衆を対象としているものであったし、それと対立する所謂純文学は、従来の個人主義に立っての個人の文学の主張であり、それにふさわしい創作方法として対象は自我であり自己の世界であり、私小説の伝統に立つものであった。後者は純文学の芸術性の擁護、文学精神としての芸術至上の論拠に立って、批判を行っていたのである。
 事情は推移して、プロレタリア文学時代は過ぎたのであったが、この文学を押し流した時代の波は、純文学を主唱した知識人の社会的ありようにも激しく荒っぽい動揺を加えた。そしてそのひどい震盪は、純文学の枢軸であった人間としての自我の拠りどころを全く見失わせるに至った。この純文学の悲劇は、しかしながら既に数年に亙って準備されていたものであったとも云える。何故なら、プ
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