文学精神と批判精神
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)跟《つ》いて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年六月〕
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文学に関することとしての批判精神の問題とその解釈とは、この三四年来、随分特別異常な待遇をうけて来ていると思う。
今から四年ばかり前、日本には批評文学、或は文学的批評という一種の風が発生した。これまで文芸批評と云えば文学現象の客観的評価をその当然の任務として来ていたし、作家と読者とに対してその評価の責任をも明らかにしているものと思われていた。ところが、四年前のその時期頃から、批評の多くは文学現象を客観的に省察してそれへの評価を与えてゆく自身の本来の役割をみずから放棄してしまった。そして、様々の文学現象が次々と現われて来るに跟《つ》いて動いて、そのような現象のおこる動機をひとしなみに社会的・文学的必然として尊重し、結果としては現実に対する自己欺瞞の意識や擬態を正当化するようになった。作家と読者との相関のいきさつのなかに文学の動向の諸相を明らかにしてゆく現実の作用は喪われて、批評はそれを書くひとの主観の流れに応じて肆意《しい》的に自身の渦巻きを描くものとなった。批評の論理性の喪失、その随筆化ということがその頃一般の注目をひいたのも当然のことであった。
批判精神のそのような衰微が皆の注目をひきながら、その時分それの健康な道への恢復のための努力が充分されなかったという理由はどこに在っただろう。或は少数の努力がその功を十分に発揮せず大勢としては益々衰弱的方向が一路辿られて今日に及んでいるというのは何故だろう。
それこそは、四年前に、批判の精神が自身の性能の本来なる力の放擲をあからさまにしたとき、その根源の理由として、従来文学に携って来た一部の知識人の最も深刻な歴史的な自己放棄・自己の存在価値への人間的確信の失墜が生じたからであると思う。当時批判の精神というものは、殆ど感情的な反撥をもってほかならぬ批評家自身に見られていた。批評家にとってそこから自身の骨肉をわけて来た筈のその精神が、そんなに邪魔っけで憎らしい荷物に思われるように成ったというのは誰の目にもただごとではあり得ない。
当時より更に数年前にさかのぼってプロレタリア文学時代を顧みると、この時代には、批判の精神というものはこの文学における独自な性格である自己の存在意義への歴史的な確信と主動性とともに極めて溌剌と動いた。けれども、文芸理論としての若さから、批判の精神は文学以前の社会的見地というものと多かれ少なかれ混同して考えられていた。そのことは世界観と芸術性とが、文学の内部で対立するものであるかのような混乱があったことにもうかがえる。文学作品と読者とに対して評価の責任ある作用を営むものとしての批判精神は、その場合とかくそれぞれの作品の、文学以前の現実現象に対する作者の観かた如何から、評価の一歩を踏み出してゆくことになった。作品の内容、形式と、二つの別のもののように見られる困難が克服されていなかった。所謂《いわゆる》形式はとりも直さず内容そのものの具顕であって、その内にそれぞれの芸術性として生かされている世界観がふくまれているという生きたままの肉体を対象として、批判が縦横の洞察を行うことは出来なかった。そこには、その時分まだ批判精神は理知的・論理的・意志的なものであり、芸術性は感情的・感性的なものであるというような昔風な知情意の区分が、統一された人間精神の発動の各面という理解にまで高められていなかったことも現れているのである。
プロレタリア文学時代の文芸批評にあった以上のような未熟さは、当然その発展成長のための強い批判を必要としたのであったが、非常に興味あることは、当時その理論的未熟な点に向って行われた批判は、常にその文学の本質に対立する社会的層から発せられていたという事実である。プロレタリア文学はその創作方法において大衆を対象としているものであったし、それと対立する所謂純文学は、従来の個人主義に立っての個人の文学の主張であり、それにふさわしい創作方法として対象は自我であり自己の世界であり、私小説の伝統に立つものであった。後者は純文学の芸術性の擁護、文学精神としての芸術至上の論拠に立って、批判を行っていたのである。
事情は推移して、プロレタリア文学時代は過ぎたのであったが、この文学を押し流した時代の波は、純文学を主唱した知識人の社会的ありようにも激しく荒っぽい動揺を加えた。そしてそのひどい震盪は、純文学の枢軸であった人間としての自我の拠りどころを全く見失わせるに至った。この純文学の悲劇は、しかしながら既に数年に亙って準備されていたものであったとも云える。何故なら、プ
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