ロレタリア文学との対立の時期に於ても、純文学の自我は、その自我の歴史的な成長の過程として、よりひろい動的な社会の客観的現実としての関係の中に自我を見る目を育てようとはせず、反対に個性という自我の一つの属性の範囲に人間の自我の可能性をちぢめて、その個性の芸術的完成の意味での芸術性のみを強調して来ていたのであったから。その必要に立って、自我の拡大のための重大な消化機能である現実的な批判精神というものは拒否して来たのであったから。
社会情勢の波瀾が内外の圧力で純文学末期の無力な自我から最後の足がかりを引攫おうとしたとき、そのような苛烈な現実を歴史的な動きの中に把握してゆく精神を既に喪っていた自我がそれぞれのとりいそいだ転身の術によって自ら歴史の中に立つ気力を失った自我を託すべき地盤をさがし求めた。急速に移り動く何かのよりつよい力に自我の破船を結びつけなければならなかった。その力が、どのようなものであるかということを省察する責任を自分に向って求めることはもう止められた。人間的自己の尊重の精神は我から捨てられて、批評はそれぞれのそのような文学以前の現象、又そのような事情から発する雑多な文学現象の動機への肯定的尊重となり、その結果文学批評として本質的な客観性を失い、評価の力を失ったということは、避けがたい必然の成行であったと思う。
批判の精神という声さえ、憎悪をもって聞かれた当時の心理も、こう見て来れば肯けよう。批判の精神が人間精神の不滅の性能であることやその価値を承認することは、とりも直さず客観的観照の明々白々な光の下に自身の自我の転身の社会的文学的様相を隈なく曝すことになり、それは飽くまで主観的な出発点に立っている精神にとって決して愉快なことであり得ない。のぞましいことでもない。日本文学の歴史において一つの画期を示したこの自我の転落は、当事者たちの主観から、未来を語る率直悲痛な堕落としては示されず、何か世紀の偉観の彗星ででもあるかのような粉飾と擬装の下に提示され、そこから、文学的随筆的批評というようなものも生じた次第なのである。そして、純文学の悲劇は、自我をより強力な文学以外の力に托さなければならなくなったことから、やがて文学を語るに、文学の外のところから云い出すということにもなった。嘗て純文学の精神の守護であった芸術性はとんぼ返りをうって、鬼面人を脅かす類のものに転化したのである。
以上の瞥見は、私たちに今日、何を教えているであろうか。現実に即した観察は、批判精神というものが決して抽象架空に存在し得るものではなくて、それどころか実に犇々《ひしひし》と歴史のなかに息づき、生成し、変貌さえも辞せないものであることを理解させると思う。批判精神は情緒感性と切りはなされて存在し得るものどころか、人間の精神活動の諸要素の極めて綜合されたものにほかならないことも肯ける。
文学精神を云い更えれば批判精神である、と云われるが、この場合批判精神の実体を、文学以前の社会的現実を明瞭確実に把握、判断する社会的見地或は社会を見る眼というだけの内容づけに止るべきではなかろうと思う。文学との現実なかかわり合いに於て見られるとき、批判の精神は一人の作家の内面に発動してその作家が現実社会の下で置かれている一定の関係を通じて与えられた多種多様な社会的現実に対して客観的な評価を与えるばかりではなく、その主題が芸術化されてゆく創作の過程で、作品の対象と創作方法との間にあるべき必然の繋がりをも、吟味してゆく精神でなければならない。
嘗て純文学は、対象を自我において、従って読者というものは作者の創作過程の内部へ及ぼす有機的な関係をもたなかった。自我が喪失されるとともに純文学は創作の内面的対象としての読者大衆ではなく、外面的な転身の足がかりとして読者を意識し、大衆生活を描くに不可欠な創作方法の探求はぬきに、作者の主観で、自己の作品の購読者としての読者を意識した。そのことで、具体的な人間群としての大衆は作品の中に生かされていないようになったとともに、自己の作品の世界に対する作家の人間的社会的な責任というものも無視されたものとなって来てしまっている。
文学に人間が再生しなければならないとは昨今頻りにきく要求である。明日に向って人間の自己は、より成長し、より責任ある社会的な性格をもって文学に甦らなければならないのであるが、その目安をもって私たちが自己の再発見をなし得るための客観的な力として、現実に在るのは、批判の精神をおいて他に無い。
文学がどんなに社会的のものになろうとも、創作の現実ではめいめい一人一人の人間の極めて具体的な綜合的な社会意識の内部から作品が生まれるものである限り、益々批判の精神の役割は重大になって来るばかりなのである。批判の精神の無私な努力だけが、世紀
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