ては、感情の直接反応としては、何か拡がった枠の感じだけが先に来て、目前の文学建設の実質のとらえどころがはっきりとしないような危険がある。感じに負けて、息づかいせわしく弾んでいるところがある。
 巨大な建造物に、強い土台がいるというようなことを云えば人は、わかり切ったこととするのだけれども、規模も内容も大きい新しい文学をつくるためには、作家がどれほどリアルな眼をもって洞察し評価し取捨して現実を再現しなければならないかということになると、ついそれが身の処置と混同して理解されたりア・ラ・モード風の方便地獄に片脚いれられたりしがちである。思想的潮流のあらゆる時代を潜って、文学はこの点執拗な粘着力で、人間が生きている人間の姿を書くことを求めつづけて来ているのである。
 昔の外国のロマンチシズムの時代を顧みるとなかなか興味のあることは、抽象名詞が雄飛した割合に、作品で後にのこるものがないことである。明日の日本の文学が雄大なものであるためには、今日の生活の現実に徹しなければならず赫々たるものに対してはまことに微々たる如きめいめいの生活の姿に、猶当と[#「当と」に「ママ」の注記]は観なかった意義と社会
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