文学の大衆化論について
宮本百合子
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《》:ルビ
(例)抑々《そもそも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自己|蝉脱《せんだつ》は出来ないのであるから、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)大衆への愛[#「大衆への愛」に傍点]に期待するよりも
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昨今、作家が一般大衆の生活感情と自分たちとの繋りについて関心を示すようになって来ると同時に、文壇を否定する気分がはっきり云われはじめた。文壇は作家も文学をもちぢこませてしまう、広々とした、流動する民心とともにある文学を創るために文壇は既に害あって益ないところであるというのがこの主張の論旨である。
日本に文壇というものが皆にわかる一定のまとまった形で出来たのは、自然主義文学の擡頭以来とされているようである。抑々《そもそも》文壇の発生の初めは、当時の文学者たちが当時の社会の旧套、常套が彼等の人生探求の態度に加えようとする制約を反撥する心持の、同気相求むるところからであったろう。硯友社時代の師匠、その弟子という関係でかためられた流派的存在、対立が、各学校の文科卒業生たちが文化面での活動分子として数に於ても増大して来たと同時に、出版事業の形態も拡大し、より広汎な、各流派を包括する文壇が形成された。
歳月を経るにつれ、社会事情が変遷するにつれ、その文壇というものが、文学的分野で全く特殊な場所となって来た有様についてくどい説明は今日必要ないが、作家が大衆の日常生活とはなれ所謂《いわゆる》文壇内の存在化して来る程度とその速度とは、畢竟するに、日本の現代文化の深刻な分裂の程度とスピードとを語るものであった。
文学が貧困化して来るにつれ、文壇というものは僅なものの売食いで命をつないでいる生活者のように排外的になり、その壁の中へ参加する機会をつかむためには、女までをくわなければならないような事態になった。
そういう文壇というものが、作家生活と文学を生新にする力を欠いていることを疑うものは最早《もはや》一人もないであろうと思う。作家よ、そして、作家たらんとする人々よ、文壇を蹴って、颯爽と大衆の海へ抜手を切れ、と呼ぶことは、おのずからそこに風の吹きわたるような空気の動きを予想させるのである。
ところで、一般に今日そういう気運が醸し出されているとして、そう云いそれを行う作家たちは、いかなロマンチストでも簡単に自己|蝉脱《せんだつ》は出来ないのであるから、或る意味ではやはり元の作家A・B・C氏であることは避け難い現実としなければならない。それらの人々の胸の内、或は言葉の上で、大衆と云い民衆と云われるものがどう考えられ会得されているかということが、昨今至るところで耳目にふれる文学の大衆化、民衆化の具体性を決する実際の条件になるのである。
この視点から今日のありようを観察してみると、作家たちの間で、大衆、民衆を見る目は必ずしも一致しておらず、幾様かの種類を示している。ごく大ざっぱに見て、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、横光利一、室生犀星氏等のように、今日あるままの分裂の形に於て、作家の側からより文化水準の低い民衆を眺め、官吏、軍人、実業家中の精鋭なる人士が情熱を示している刻下の中心問題を文学の中心課題とし、「大人の文学」を大衆にも分る書きかた、云いかたで作ってゆこうと提案している人々がある。これらの人々の考えかたの特徴は、作家の大衆に対する文化的指導性を自身の社会性についての省察ぬきに自認している点、及び、所謂|俚耳《りじ》に入り易き表現ということを、便宜的に大衆的という云い方でとりあげていて、従来の通俗文学との間に、画すべき一線のありやなしやを漠とさせている点等にある。同時に、或る部分では、民衆性と小市民的な気質とが全く理解のうちで混同されている有様も見られる。「一家一糸も乱れざる」日常生活を自分に律したり、義理人情に溺れ込む快さに我から溺れ込むことを、人民の心のあたたかみにとけ合うことと思いちがいしたり、初老に近づく日本人の或る感情と民衆性とが危くも縺れあっていると思わせるところさえあるのである。
これに対する態度として、作家自身の庶民性の主張がある。これは、天降り風な大衆のための文学創作に抗して、自身のこの社会での生れ、在り場所、生きかたから、書かれるものはおのずから誇高き庶民の文化であることが標榜されている。武田麟太郎氏がそのトップに立っているのである。
然しながら、ここで云われている庶民性は、都会人性、町人性との区別を分明にしていない。庶民性そのものへの過剰な肯定があることから、散文精神なるものが従来の作家的実践のままでは、とかく無批判的な日暮し描写、或る意味での追随的瑣末描写の中に技術を練磨される傾きであった。大衆というものの内部構成と、そこに潜んでいる可能性というものは、庶民性と果して同一のものであり得るであろうか。勤労者の気質、利害の中に庶民的気質と云われるものが混りこんでいるには違いないけれども、庶民性即ち勤労者大衆性とすることは実際上不可能なのである。
谷川徹三氏の文学平衡論は、現代日本における文化の分裂という点から現状を視て、作家の文化水準と大衆の文化水準との平衡が求められているのであるけれども、この提案に於ても、文学における大衆性と通俗性との重要な区別は、正面に押し出されていないのである。
このように通観して来ると、現在文学の大衆化を云々している作家の現実の中でも、まだまだ作家と大衆との間に実に大きい生活的な距離があり、大衆性そのものも十分に究明されていないことが分るのである。日本近代社会がその推移の過程で引き裂いた文化面のこの無惨な亀裂を今日性急に主観的にとび越え、埋めようとするところから、或る意味では従来の反動として、市民的日常性への無条件降服のきざしが作家の間に生じている。この傾向は、特に、日本の文化が置かれている今日の事情に照らして、軽々に賛同出来がたいものをもっているのである。
人間的なものの美と価値とを、異常な場合の中に発見しようとして来た過去の文学に対して、人間的なものを、一般平凡、普遍なものの中に発見し評価してゆこうとするのが昨今の傾向である。文学語から日用語に移ろうとしている。しかし、このことは、小林秀雄氏が何処かで云っているように、単に既成作家、評論家が今の調子をつづけて円熟し、ものわかりよくなった結果として、年齢とともに期待し得るというような実質を意味するものではないと思う。
人間性というものの理解についても、現在のような社会事情の錯綜の裡にあっては、様々の複雑な混乱がおこっている。現状に対する唯々諾々的態度、その出処進退に終始一貫した人間としての責任感がないことまで、その作家がもっている高い素直さ、人間性という評価をうける甘いホロリズムさえ、いつの間にか這い込んで来ていないことはない。人間性の問題はプロレタリア文学の歴史の上では、いくつかの段階を経て、今日では人間性諸相の、社会関係との綜合的描写の理解へすすみつつある。
文壇的文学が否定され、民衆の文学、大衆の文学が云われて来て、ブルジョア文学における人間性が過去の追究力を喪失し、あるがままの現れにしたがって写し描いてゆく、というような状態に陥る危険を示していることはまことに深甚な示唆を含んでいる。文学において同じく人間性を主張するに当っても、そこに様々の力点の相違があったことは、世界の文学史の数頁をよんだものの理解しているところである。
今日、日本の大衆のおかれている現実の事情に立って、民衆の文学をとなえる作家によって人間性のどのような面が、どのような筆致でとりあげられているかを詳細に看た場合、私たちは、文学の大衆化という声は必しもその全部が大衆の優勢の姿として、その声として、現れているのでないことを率直に認めなければならない。
作家が、大衆のおかれている感情状態の裡から現実を描いてゆくことと、大衆のおかれている文化的、社会性の低さのままに自らを流し従ってゆくこととは、全く別の二つのことである。もし作家が大衆化の意味をあやまって、後者の態度にしたがうようなことがあれば、それは大衆を低めているものの力に屈すと同時に、作家自身を無力化せしめている力にも自身から叩頭することになってしまうであろう。
近頃は、嘗てプロレタリア文学運動に従った人々が、大衆性の理解についても、一種奇妙な役割を果しているのを見うける。その人々の云うところは、もとのプロレタリア文学運動などは親がかりの若僧が観念的に大衆化を叫んでいたのであって、考えて見ればそれらの人間が大衆を云々するなどとは烏滸《おこ》がましい、という風な論である。
日本のプロレタリア文学運動が、当時の歴史性によって多くの特徴的な欠陥をもっていたことは事実であった。しかし、私はそういう論者に、読者とともに次のことについて誠心からの答えを求めたいと思う。浮世の辛酸をなめ、民衆としての苦労をした人々を、所謂貧すれば鈍する的事情から立たしめて、その辛酸と労苦との社会的意義を自覚させたのは何の力であったろうか。そして、その辛酸と労苦との意義を語ることに確信を与え、新たなる文学の実質としてその歴史的足場を感じさせたのは何の力であったろうか、と。
民衆の自発性の表現としてのプロレタリア文学運動の意義は、嘗てその運動に参加した一部のインテリゲンツィアの人々の今日の自嘲その他にかかわらず、文化の蓄積として、大衆にとっての社会的な何かの実力として、ちゃんと大衆の中に残っているのである。もとより、大衆と云えば直ちに一種の興奮的類型にとらわれるような幼稚な概念は揚棄されているにしろ。
結局常識の世界の方が住みよい、というような言葉によって表現される作家の或る近頃の感情や市民的平民的な日常の伝習の姿に対して和して同ぜず式な或るポーズで対していることと、作家が今日の現実の常識を描き、大衆を描こうとする情熱とが一つものであるとは思い難い。民衆は現代の諸矛盾を八方からその身に受けて照りかえしつつ日々夜々を生きているのであって、自身の置かれているこの社会での場所を、昨今一部の作家が殆ど一種のエキゾチシズムをも加えて云うかと思われる民衆的なる総称の下に、強《あなが》ち鼓腹撃壤しているのでもないのである。
今日云われている文学の民衆化のことは、嘗て屡々《しばしば》くりかえされて来た純文学対大衆文学の問題ではなく、文学そのものの全体的な重点の移動がもくろまれているところに重大な歴史的意味をもっている。従って、大衆と云い、民衆と云うその目安がどこにどのように置かれるかということによって、将来の文学そのものの本質が左右される。文学が、単に低きについたことにならされぬように、作家は警戒し努力しなければならないと思う。従来のような生活ぶりの作家たちが、自身の内にある所謂文壇的、文学的関心以外の諸要素、家庭的な感情だとか、近所合壁への義理だとか、些細な日常利害だとかを、直ちに自身の中の民衆的なるものだとすれば、それは大きい誤りなのである。
この点について、私は特に興味ふかく思うのであるが、ひところ或る種のプロレタリア文学運動の活動家が人間性というものの理解について陥り勝ちであった二元的見解をひっくりかえしたようなものが、今日まで極めて文壇的な雰囲気、折衝、感情錯綜の中に生活して来ている作家その他の心持の中にあるらしいことである。
この二元的な人間性の見かたは、プロレタリア文学にあっては、彼も亦人間であった、という風に闘争的な義務、規律、英雄主義に対置してあらわれ、その人間性の抽象化は非現実な現実の見方とされて来ているのである。所謂文壇人の領域で、人間性についての二元的な感じ方は、作家でない種類の人間的美質というようなものだけを抽象して来て感服する昨今の風となって現われて来ている。
最近、それについて興味ふかい二種の実際の場合があった。一つは、左翼的な或る作家の経験であるが、そ
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