のA氏は日本の企業界で歴史的に有名な或る会社の現実を、芸術に描こうと発意し、日本の実業家列伝中でも巨星であるその会社の創始者のやりかたなどを定型的資本家の観念で考えていた。創作の準備がすすむにつれ実地調査の欲が起って、その会社と交渉したところ、快く面談、説明案内をされ、到れりつくせりで、その作家A氏は、度々そっちの人と逢っているうちにいつか、資本家も人間であるという人々の説明にしんから同感するようになった。そして、私たちは搾取しようなどと夢にも思っていない、産業軍の一兵卒として自分から身を挺して働いているのであるというようなことを熱心に説得する対手の感情にまきこまれ、彼等の舌代的なところがある作品が出来上って、おやおやということがあったという例である。資本家というと、赤鬼を描く素朴な人間理解が、その作者の心持にこういう一見滑稽なわなを置かしめたのであった。
他の例というのは、若い文壇関係の人の口から一度ならず、政治家や軍人なんぞはなかなかどうしていいところがある、第一実に率直だし、明快だし、会っていて人間的に愉快ですよ、という言葉をさも気乗りのしているらしい表情とともに聞かされることである。
私はその言葉を非常にあれやこれやの面から、印象深くきいた。狭い文壇的気流の匂いだの、ゴシップだの、競争だの、いりくんだ利害関係だのから、作家同士或は作家、編輯者との間からは、世が世智辛くなるにつれ、率直さや朗らかさや、呵々大笑的気分は消失して来ているであろう。その内輪で、どちらかと云えば神経質な交渉の反覆を日頃経験している人々が、そういうこまかい利害からは埒外にあって、しかも今日の世の中では文学の仕事にたずさわる者に対して高飛車な朗らかさと率直さを示し得る背景の前にいる人々を眺めたら、一応それらの面が強い刺激となって感受されるのだろう。それを、単純にいいところと云ってしまえるものかどうかということは、自ら又別なのである。
従来の文壇と作家気質とは、それ程作家の感情を偏した特別なものにして来ている。文壇的文学を主観的傾向のものであったと見ることが出来るならば、現今云われている文学の大衆化は、文学の客観的価値の押し出しである。そうであるとすれば、作家は益々、社会における人間の客観的な関係、価値、意味などの有機的な結合の末で、それぞれの人間性の発露というものも捕えることを学ばなければならず、それに練達しなければならない。客観的に描くということが、傍観的態度を意味なさないことはこれも亦自明である。
文学の大衆化ということについて真面目に念願する人々は、自然、現在の既成作家の大衆への愛[#「大衆への愛」に傍点]に期待するよりもより分量の多い期待を、大衆の中から新しく生れ出て来ようとする文学に新部隊にかけざるを得ない心持だと思う。
今日まで、いつくかの賞で新人として出された新人の種類でない新人。新人候補としてそれ以前久しく文壇的摩擦をうけた人でない人たち。そういう人を期待する感情がつよい。そのことは、素人作家という未熟練な質と結びつけて考えられ勝で、既に素人作家は御免であるという声もきこえている。
作家であって素人なのは困るけれども、社会生活では大衆の一員として或る一定の職業をもち作家を職業としてはいない若い人々の作品が、その文学的発展の方向において、文壇的ではない、文学的方向に導かれる気風が興らなければならないと思うのである。
現代の青年の間に、文学の仕事を愛し、それをやってゆきたいと思っている人は決して尠《すくな》くない。しかも、その望みの内容というか動機というか、スプリングとなっているものは、嘗てロマンチシズム時代の青年が、新しき世ひらけたり、という風な激情を身内に覚えて芸術を求めてゆくのではなく、勤め先、家庭、この社会での自身の一般的境遇に何か云わずにいられないものを感じていて、そこから文学をやるしかないと思っている人々。又、現代社会の経営的機構は一個のXなる青年の生涯を冷酷な一部分品、しかも消耗したら手軽にいくらでもとりかえることの出来る部分品としてだけ扱っているので、謂わばこの世に自分という人間の生きているという固有名詞をせめて印刷物の上にでも主張したいという、名誉心と云っては言葉が大きすぎるような感情から、比較的個人の才能にしたがって道を拓くことの可能が残されている文学の仕事に心をひかれている人々等があるのである。
政治、経済、軍事上に自己を発揮する機会をもっていない半島の青年たちが、近頃盛に音楽、舞踊、文学の分野に努力を傾けている。この現実と、以上のような青年たちの文学を愛する感情の底にあるものとは、私たちに何事かを考えさせずには置かないのである。
ところが、現在職業をもたなければ、経済的に困る若い人々は、文学との関係で生活感情の分裂、両天びん的困難に陥っている場合が多い。ここでもまだ文学というものが、旧来の型にしたがって考えられており、その人々の一見平凡な勤労的日常とは何かかけ離れた、何か文学的[#「文学的」に傍点]なものによって、何か現実とはちがった色調の空気によって、作品は創られてゆくべきかのように思われている。そのために、それらの若い人々は、勤め先ではここは只月給をとる場所と思い、文学の仕事に向うと、その困難に対して、こんな日頃の生活だからと文学的[#「文学的」に傍点]なるものの欠如を歎く事情におかれ、つまりは自分の生活全般に自信のおき場を失い、人生に向って声をかける手がかりを失うことになっている。
文学の大衆化を云うのであるならば、こういう生活と文学との古風な分離の常套感を、先ず人々の感情から一掃する必要がある。毎日の生活の中へ確かりと腰を据え、その中から描いてゆくこと。自分のこの社会での在り場所を、人及び作家としての気構えで統一的に生き抜き、経験し、そこから作品をつくってゆくことを、自然な方法として示される必要がある。真の文学というに足りる文学は決して文学的[#「文学的」に傍点]なしねくねからは生れない。文学的[#「文学的」に傍点]なるものの底をぬいて、始めて文学に到達し得る。自身を今日の大衆の一人として自覚することの鮮明さ。大衆というものが自分をこめて置かれている今日の在り場所についての客観的な把握。その中からの一人の声としての文学。これが、文学に新しい社会的な命をもたらすのである。こんなことは、もう云いふるされたことのようである。けれども、文学の大衆化が、従来の作家たちの新しい努力の成果への希望とともに、文学の生産者としての大衆に対する倍旧の期待なしに云われるとすれば、結局は健全性を失って、やはり文壇的な一つの風潮として個々の作家にそれぞれの角度で反映するに止ってしまうのである。[#地付き]〔一九三七年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「新潮」
1937(昭和12)年5月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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