大衆と云えば直ちに一種の興奮的類型にとらわれるような幼稚な概念は揚棄されているにしろ。
 結局常識の世界の方が住みよい、というような言葉によって表現される作家の或る近頃の感情や市民的平民的な日常の伝習の姿に対して和して同ぜず式な或るポーズで対していることと、作家が今日の現実の常識を描き、大衆を描こうとする情熱とが一つものであるとは思い難い。民衆は現代の諸矛盾を八方からその身に受けて照りかえしつつ日々夜々を生きているのであって、自身の置かれているこの社会での場所を、昨今一部の作家が殆ど一種のエキゾチシズムをも加えて云うかと思われる民衆的なる総称の下に、強《あなが》ち鼓腹撃壤しているのでもないのである。
 今日云われている文学の民衆化のことは、嘗て屡々《しばしば》くりかえされて来た純文学対大衆文学の問題ではなく、文学そのものの全体的な重点の移動がもくろまれているところに重大な歴史的意味をもっている。従って、大衆と云い、民衆と云うその目安がどこにどのように置かれるかということによって、将来の文学そのものの本質が左右される。文学が、単に低きについたことにならされぬように、作家は警戒し努力しなければならないと思う。従来のような生活ぶりの作家たちが、自身の内にある所謂文壇的、文学的関心以外の諸要素、家庭的な感情だとか、近所合壁への義理だとか、些細な日常利害だとかを、直ちに自身の中の民衆的なるものだとすれば、それは大きい誤りなのである。
 この点について、私は特に興味ふかく思うのであるが、ひところ或る種のプロレタリア文学運動の活動家が人間性というものの理解について陥り勝ちであった二元的見解をひっくりかえしたようなものが、今日まで極めて文壇的な雰囲気、折衝、感情錯綜の中に生活して来ている作家その他の心持の中にあるらしいことである。
 この二元的な人間性の見かたは、プロレタリア文学にあっては、彼も亦人間であった、という風に闘争的な義務、規律、英雄主義に対置してあらわれ、その人間性の抽象化は非現実な現実の見方とされて来ているのである。所謂文壇人の領域で、人間性についての二元的な感じ方は、作家でない種類の人間的美質というようなものだけを抽象して来て感服する昨今の風となって現われて来ている。
 最近、それについて興味ふかい二種の実際の場合があった。一つは、左翼的な或る作家の経験であるが、そのA氏は日本の企業界で歴史的に有名な或る会社の現実を、芸術に描こうと発意し、日本の実業家列伝中でも巨星であるその会社の創始者のやりかたなどを定型的資本家の観念で考えていた。創作の準備がすすむにつれ実地調査の欲が起って、その会社と交渉したところ、快く面談、説明案内をされ、到れりつくせりで、その作家A氏は、度々そっちの人と逢っているうちにいつか、資本家も人間であるという人々の説明にしんから同感するようになった。そして、私たちは搾取しようなどと夢にも思っていない、産業軍の一兵卒として自分から身を挺して働いているのであるというようなことを熱心に説得する対手の感情にまきこまれ、彼等の舌代的なところがある作品が出来上って、おやおやということがあったという例である。資本家というと、赤鬼を描く素朴な人間理解が、その作者の心持にこういう一見滑稽なわなを置かしめたのであった。
 他の例というのは、若い文壇関係の人の口から一度ならず、政治家や軍人なんぞはなかなかどうしていいところがある、第一実に率直だし、明快だし、会っていて人間的に愉快ですよ、という言葉をさも気乗りのしているらしい表情とともに聞かされることである。
 私はその言葉を非常にあれやこれやの面から、印象深くきいた。狭い文壇的気流の匂いだの、ゴシップだの、競争だの、いりくんだ利害関係だのから、作家同士或は作家、編輯者との間からは、世が世智辛くなるにつれ、率直さや朗らかさや、呵々大笑的気分は消失して来ているであろう。その内輪で、どちらかと云えば神経質な交渉の反覆を日頃経験している人々が、そういうこまかい利害からは埒外にあって、しかも今日の世の中では文学の仕事にたずさわる者に対して高飛車な朗らかさと率直さを示し得る背景の前にいる人々を眺めたら、一応それらの面が強い刺激となって感受されるのだろう。それを、単純にいいところと云ってしまえるものかどうかということは、自ら又別なのである。
 従来の文壇と作家気質とは、それ程作家の感情を偏した特別なものにして来ている。文壇的文学を主観的傾向のものであったと見ることが出来るならば、現今云われている文学の大衆化は、文学の客観的価値の押し出しである。そうであるとすれば、作家は益々、社会における人間の客観的な関係、価値、意味などの有機的な結合の末で、それぞれの人間性の発露というものも捕えることを学ばな
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング