る傾きであった。大衆というものの内部構成と、そこに潜んでいる可能性というものは、庶民性と果して同一のものであり得るであろうか。勤労者の気質、利害の中に庶民的気質と云われるものが混りこんでいるには違いないけれども、庶民性即ち勤労者大衆性とすることは実際上不可能なのである。
 谷川徹三氏の文学平衡論は、現代日本における文化の分裂という点から現状を視て、作家の文化水準と大衆の文化水準との平衡が求められているのであるけれども、この提案に於ても、文学における大衆性と通俗性との重要な区別は、正面に押し出されていないのである。
 このように通観して来ると、現在文学の大衆化を云々している作家の現実の中でも、まだまだ作家と大衆との間に実に大きい生活的な距離があり、大衆性そのものも十分に究明されていないことが分るのである。日本近代社会がその推移の過程で引き裂いた文化面のこの無惨な亀裂を今日性急に主観的にとび越え、埋めようとするところから、或る意味では従来の反動として、市民的日常性への無条件降服のきざしが作家の間に生じている。この傾向は、特に、日本の文化が置かれている今日の事情に照らして、軽々に賛同出来がたいものをもっているのである。
 人間的なものの美と価値とを、異常な場合の中に発見しようとして来た過去の文学に対して、人間的なものを、一般平凡、普遍なものの中に発見し評価してゆこうとするのが昨今の傾向である。文学語から日用語に移ろうとしている。しかし、このことは、小林秀雄氏が何処かで云っているように、単に既成作家、評論家が今の調子をつづけて円熟し、ものわかりよくなった結果として、年齢とともに期待し得るというような実質を意味するものではないと思う。
 人間性というものの理解についても、現在のような社会事情の錯綜の裡にあっては、様々の複雑な混乱がおこっている。現状に対する唯々諾々的態度、その出処進退に終始一貫した人間としての責任感がないことまで、その作家がもっている高い素直さ、人間性という評価をうける甘いホロリズムさえ、いつの間にか這い込んで来ていないことはない。人間性の問題はプロレタリア文学の歴史の上では、いくつかの段階を経て、今日では人間性諸相の、社会関係との綜合的描写の理解へすすみつつある。
 文壇的文学が否定され、民衆の文学、大衆の文学が云われて来て、ブルジョア文学における人間性が過去の追究力を喪失し、あるがままの現れにしたがって写し描いてゆく、というような状態に陥る危険を示していることはまことに深甚な示唆を含んでいる。文学において同じく人間性を主張するに当っても、そこに様々の力点の相違があったことは、世界の文学史の数頁をよんだものの理解しているところである。
 今日、日本の大衆のおかれている現実の事情に立って、民衆の文学をとなえる作家によって人間性のどのような面が、どのような筆致でとりあげられているかを詳細に看た場合、私たちは、文学の大衆化という声は必しもその全部が大衆の優勢の姿として、その声として、現れているのでないことを率直に認めなければならない。
 作家が、大衆のおかれている感情状態の裡から現実を描いてゆくことと、大衆のおかれている文化的、社会性の低さのままに自らを流し従ってゆくこととは、全く別の二つのことである。もし作家が大衆化の意味をあやまって、後者の態度にしたがうようなことがあれば、それは大衆を低めているものの力に屈すと同時に、作家自身を無力化せしめている力にも自身から叩頭することになってしまうであろう。
 近頃は、嘗てプロレタリア文学運動に従った人々が、大衆性の理解についても、一種奇妙な役割を果しているのを見うける。その人々の云うところは、もとのプロレタリア文学運動などは親がかりの若僧が観念的に大衆化を叫んでいたのであって、考えて見ればそれらの人間が大衆を云々するなどとは烏滸《おこ》がましい、という風な論である。
 日本のプロレタリア文学運動が、当時の歴史性によって多くの特徴的な欠陥をもっていたことは事実であった。しかし、私はそういう論者に、読者とともに次のことについて誠心からの答えを求めたいと思う。浮世の辛酸をなめ、民衆としての苦労をした人々を、所謂貧すれば鈍する的事情から立たしめて、その辛酸と労苦との社会的意義を自覚させたのは何の力であったろうか。そして、その辛酸と労苦との意義を語ることに確信を与え、新たなる文学の実質としてその歴史的足場を感じさせたのは何の力であったろうか、と。
 民衆の自発性の表現としてのプロレタリア文学運動の意義は、嘗てその運動に参加した一部のインテリゲンツィアの人々の今日の自嘲その他にかかわらず、文化の蓄積として、大衆にとっての社会的な何かの実力として、ちゃんと大衆の中に残っているのである。もとより、
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