稿をよみましたよ。正直なところ、気に入りましたね。早速行動を始めて下さい」という激励であった。早速瀬ぶみの飛行が行われ、帰って来たヴォドピヤーノフの報告をきくシュミット博士は、次のように質問した。
「ミハイル・※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]シーリッチ『操縦士の空想』の中にある高緯度地帯の描写と現実の間に、何か類似点がありましたか?」
「極北ではどうか知れませんが」とヴォドピヤーノフは答える。「八十三度までのところでは何も彼も符節を合する如くです。覚えて居られますか。私は平静湾の氷は五月に溶けると書きましたが、果して五月にすっかりとけてしまいました。それに、ルドルフ島の天候も私の本にあるのと、全く同じです」
「操縦士の空想」を現実のものとして彼等が北極に学術探検隊をおくることに成功したとき、遙かかなたの首府では、この小説が劇場に上演されていることをラジオで知るそのこともよろこびをもってかかれているのである。
今日私たちの身近にも、専門は科学であるが、文学方面の作品をもかいているという何人かの人達がある。例えばパヴロフの「条件反射」を専攻した林髞氏は木々高太郎氏であり、電気特許事務所長佐野昌一氏は海野十三氏であり、医博の正木不如丘氏はそのままの名でいろいろ作品がある。これらの科学を専攻する人たちの書くものが、日本ではいずれも探偵小説にとどまっているというのは、どういうわけであろうか。ヴォドピヤーノフのように万腔の科学性が万腔の人間的諸要素と結合して、空想そのものが巨大なリアリティーへの可能の導きであるような小説が決して書かれずに、科学を種とする人間の想像力というものが、架空な、知識の遊戯である探偵小説のなかに浪費されていなければならないという或る意味での不幸は、私たちの呼吸している文化のどういう性質によるものなのであろうか。
科学上の知識が、その人々の天性に豊かにめぐまれている、創造、想像の力と結びつこうと欲求されるとき、本質としては架空に主観的にシチュエーションをきめて物語を展開させられる探偵小説へ表現をもとめてゆく第一の理由は、今日の文化感覚のなかでまだ科学と文学とが、一方は非人間的な、純客観的なもの、一方は人間的な主観的なものという二元的観念の支配がつよく存在しているためであろうと思う。社会の一般文化の現実が比較的貧寒であって、科学の諸分野そのものの到達点、そのものの理解、利用面が十分柔軟寛闊に開拓されておらず、同時に所謂科学というものが、旧式の考えかたで、そこに作用する人間性を全く排除しているため、勢い科学と文学との手近な接合点が探偵小説というようなジャンルに求められるのだと考えられる。科学現象は純客観的なものであるにしろ、その純客観的な科学の現象にかかわってゆく際の人間的要因というものこそ、科学が人間の生活圏の中に存在するモメントをなしている筈だ。どうして、そういうモメントにおいて、科学と文学とが渾然とした統一におかれた作品がないのであろうか。
云ってみれば文化の科学性そのものの弱さと、発揚の場面の限界の狭さとが文化の社会的な性格をもってここにあらわれているのだと思う。寺田寅彦氏の随筆にしろ、愛好する人は尠くないが、果してあれらの随筆は科学者としての寺田博士の高さをそのまま表現し得ているのだろうか。つまり、あれらの夥しい随筆は、作家に及びがたい独特の科学精神の文学的表現であるだろうかと考えると、そういうものとはどこかちがって、通俗に云う文学的な面[#「文学的な面」に傍点]が表現されているのだという印象をうける。文化感情の分裂の形が、ああいう調子の随筆となって表現されていると思える。
一昨年ごろ、文壇で報告文学のことがとりあげられるとともに、素人の文学というものが一部の人々によって云々されはじめた。素人というのは、この場合、職業的作家ではない生活人という意味であって、その動機は、従来職業作家が、限られた作家的日常の範囲でふれ得ている社会現象、社会感情より昨今の現実は更にひろい複雑なものとなっているのであるから、文学において玄人でない人々が、直接素朴な生活の見聞感情から書いたものが、文学のひろがりの中で評価されて行かなければならないという意味であったと思う。
文学の実際としてみると、このことは今日の文学のありようとの関係で極めて微妙な結果をもたらしていると思える。素人の文学が、その生のままの生活感で日本の現代文学をより豊富なものにしてゆく速度よりも寧ろ、素人の文学としてうけいれられてゆくことの底をなしている今日の文化感覚の急速な下降を却って促進し肯定する形になっている方が、影響として顕著であるような傾きがある。
素人の文学ということが評価にのぼる場合、そこには、文学の技術に於てこそ素人であれ、生活人と
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