文学のひろがり
――そこにある科学と文学とのいきさつ――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空想《ゆめ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ミハイル・※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]シーリッチ
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 岩波新書のなかに、米川正夫氏の翻訳でヴォドピヤーノフというひとの書いた「北極飛行」という本がある。
 これは純粋な文学書ではなくて、ソ連の北極探検飛行の記録である。著者も作家ではない操縦士である。彼の指導によって北極の歴史的飛行が完成されたのち、「如何にして空想が現実となったか」という題の記録を『新世界』にのせた。それを米川氏が着目して、ルポルタージュとして上々のものという評価から紹介されたものである。
 二百六十頁に満たないこの本は、実に面白い。読み終るのが惜しいと思いながらも一気に読めてしまう。そういう魅力の深い本だが、その内容がまた幾つもの文化上の課題を暗示するのである。
 科学を専門とする人は、この本の中から必ずその方面の少くない示唆を受けることだろう。文学の面にふれてもやはり興味をうごかされる点が少くない。
 機械的な仕事に没頭している操縦士が、この北極飛行のような滋味ゆたかな報告を書いたということが、先ず、私たちに何かの感想をおこさせるのである。訳者も云っておられるようにヴォドピヤーノフという人が、凡庸の才でないと云うのは確であろう。だが文化のこととして、こういう科学と文学との健全に綜合された才能の発育の可能がどこからこの貧農の子に与えられたのだろうかと考えると、そこには文化上やはり並々でない分化と綜合の動的関係の在る社会が思い描かれるのではないだろうか。
 文化の各分野は、過去の数世紀間、分化によって進められて来た。それぞれの道で専門家というものが、素人に分らない努力と貢献とを重ねて、科学にしろ、文学にしろ、今日のところ迄来ている。それは疑いもない過去の宝であるけれど、例えば今日の日本に見られる文学と科学との関係のありかたなどを細かに観察すると、それがまだ文化の成育の最も望ましい開花であると迄は云切れないような段階にあるのではないだろうか。
「北極飛行」のなかで、この点にふれて最も興味のあるのは、ヴォドピヤーノフが、ナンセン、アムンゼン、ピーリ等が北極に於てとげた功績を詳細に研究して、極北に学術探検隊の営所を創設すること、飛行機の助けをかりて創設しようという、「単純で現実的でありながら幻想的で雄大な空想《ゆめ》」を抱いているとき、シュミット博士から、北極探検隊の航空方面の予定を作るようにと云いわたされて、彼が書いた報告書の性質である。「北極飛行」の筆者は語っている。「これらの人々と倶に(というのは、アムンゼンやナンセン、ピーリ等)私は、幾十回となく危機に遭遇し、その度に全精力を緊張さして困難な状態からの救いを求め、徐々に経験を蓄積して行き、誤謬の中に真実を学び取ったのだ。私は何時間も何時間も極地飛行のデテールを、微に入り細を穿って熟慮した。世界の屋根に立っている自分を、ほとんど現《うつつ》のものに見たのである。これら凡てのことをお役所式の言葉で語りつくせるだろうか。三枚や四枚の報告書に、どうして自分の疑惑や亢奮や不安がのこりなく書き尽せよう? 否、自分には出来ない! 私はさながら熱病につかれたようにペンをとりあげ紙に向った。」そして、ヴォドピヤーノフは、極地飛行を空想の中で百千回体験したとき、白熱した想像が描き出してくれた通りに、飛行準備の有様を細大洩さず描写した。更に彼は、そういう自然力と科学の力との間にある可能を現実とするために決定的な大きい作用をもたらす人間の種類をも計画し、二組の探検隊を想定して、一方はベスファミーリヌイという訓練の出来た、控え目な、自信から発する落つきのある男、一方は甚しく熱し易い、レコード樹立に懸命なタイプのブリノフという男と、それぞれに指導させてみる。後者は、極地着陸のトップを切ろうと焦って、機体の検査をしなかったので、遭難してしまう。「俺はブリノフでなく、ベスファミーリヌイにならなくちゃならない」そう思いながらヴォドピヤーノフは、書きつづけて、北極征服の空想小説「操縦士の空想」をかき上げた。彼はそれをシュミット博士のところへもって行って、こう云った。「この原稿をよんで見て下さい。これが本質的に、北極探検の飛行方面の予定案です。官僚的な文書なんか私にはかけません」
 それから一ヵ月経った或る日、彼はシュミット博士からよばれた。そして、ヴォドピヤーノフのすべての案が政府に承認されたことを伝えられる。そのときシュミット博士は「君の原
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