現代文化の最高水準に立たなければならぬプロレタリア文学の重大な課題となるだろう、といっている。
 プロレタリア・ルネッサンスというような表現はハイカラで内容的らしく特に文学青年などの耳にのこる響きである。亀井はこのプロレタリア・ルネッサンスなるものの社会的根拠をプロレタリア革命を内包するところの日本の民主主義革命の特殊性において説明している。然しわれわれが種々な場合に注意しなければならないのは、過去の歴史上ある時期に与えられた名称を、現代の歴史的必然性を示す何か新しい形容詞とともに今日に生かして使う非唯物史観的悪癖である。
 日常に例をとってみると、この頃女の洋服の流行は次第に裾が長くなり、胸の飾帯が高くなり、肩のところで短い袖をふくらましてつけるような工合になってきた。これは考証によれば「アンピール」様式にひどく似ている。では、今日のそういう型をネオ・アンピールと呼ぶとしたらそれは正鵠《せいこく》を得て、内容を説明しているであろうか? 正確でも正当でもない。なぜなら、「アンピール式」が発生した当時のフランスの経済的、政治的情勢は、今日の帝国主義、世界反革命運動の策源地フランスの経済的、政治的情勢と全然異る。あの時代にふくらんだ女の肩袖と、今日ふくらむ女の肩袖との間に決して同一な社会的基礎はない。内容が違う。内容の異る二つのものが一つの同じ言葉で表現されるということはあり得ないのである。
 プロレタリア・ルネッサンスという表現についても同様のことがいえる。イタリーを中心として起ったルネッサンス時代の経済的、政治的、文化的事情は、一九三二年の日本において、ソヴェト権力による社会主義社会建設を目ざして封建的軍事的絶対主義権力と抗争する日本のプロレタリア・農民のおかれている一般情勢とは全然性質の違うものである。階級闘争の歴史的モメントが違う。亀井は、日本においての来るべき革命がプロレタリア革命を包含する民主主義革命であるという点に、プロレタリア・ルネッサンスの社会的根拠と、日本のプロレタリア文学者がプロレタリア・ルネッサンスの樹立を夢想する現実性をのべている。一歩をあやまればプロレタリア文学運動の上に、民主主義的段階主義的危険がこの論文によって導きこまれるのである。
 日本のプロレタリア革命が民主主義革命の内から急速に転化されるものであるという解釈は、決して民主主義革命の
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