る。亀井勝一郎の「林房雄の近業について」と徳永直の「林の『青年』を中心に」とである。亀井の論文は林の近業をとおしてプロレタリア作家としての林の最近の発展について論じ、作家林を核心とし一般プロレタリア文学および同盟の問題にもふれている。
 亀井の論文はおそらく忽卒の間に書かれたものであったろう。一応林の発展の方向がこんにちの国際的な階級闘争の重大なモメントから逸脱したものであること、階級的分析に対する無関心が諸作に現れ、それは林が「あらゆる非文学的なもの、卑俗なものから純粋になろうと努力」したが、その努力が「階級闘争の新たな段階の中で」されず「文学の党派性のかわりに、文学の純粋性が持ちこまれている」結果になったことを指摘している。
 けれども、この論文には、筆者自身が生活と思考との中でまだ十分にこね切っていない、種々の理解がやや皮相的に持ち出されている。たとえば「第一の自己批判」の部でこういう部分がある。「ぼくはプロレタリア作家の一人として政治と文学という二つのポールのあいだをぐらついていた」という林の文章を引用し「ぐらつきと自卑の原因はぼくが文学をただしく理解していなかった」云々と続く林の思惟の発展を批判するにあたり、亀井は今はただしく理解したという林のいう具体的な内容の検討をぬきに「この言葉の限りでは彼のいうことは正しいのである」と先ず断定している。然し、林が「正しく」プロレタリア文学を理解したと思っていたその理解がただしいものでないことこそ筆者をして「偏向に対して」という一項を書かしめているのである。
「第二の自己批判」のところで、林の日本のブルジョア文学の発達に関する意見がとりあげられている。「日本におけるルネッサンスがプロレタリア・ルネッサンスでなければならぬ」という意見を支持し、「トルストイやドストイェフスキーやゲーテというような大作家は日本人の手にかかると[#「日本人の手にかかると」に傍点]実際の価値の十分の一ぐらい小さな作家になってしまう」と述懐した森鴎外に亀井は賛成している。そしてこの鴎外の言葉は、「我々が日本のブルジョア文学者だけを相手にしていたのでは決して文化の世界的レベルをあらわすような文学を生み出し得ない」という教訓をわれわれに与える。「十分の一」のものを「十分の十」のすがたに返し「正しいすがたの中から真に価値あるものを学びとるという仕事は」
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