のことがある。林が「作家はガンコでなければならぬ」といったのを、当時「阿蘇山」を中絶し「ファッショ」を中絶した徳永が、基本的線に沿おうという努力のある限り作家は批判に圧倒されずガンばるべきであると感じ、賛成した。けれども、林の諸作品が同じ「誤謬に属するものとしても基本的方向から背を向けている」以上このまま「ガンコであってはまったく階級的裏切りとなるであろう」と友情のある憂慮を示しているのである。
 林房雄は、近作に対して与えられる多くの同志的批判をどう理解しているであろうか。帝国主義戦争強行のため、日本の封建的専制支配が革命運動に対して、今日ほど兇暴であったことはない。失業、農村の飢餓に苦しむ大衆の革命力の深刻な高揚とそれに対する支配階級の恐怖は、プロレタリア文化団体に対してのうちつづく暴圧、白テロにまざまざと反映している。世界の情勢は革命的作家に実に多くの任務を負わせ、実践を必要としている。列強ブルジョアジーの第二次世界戦争の準備に対し、世界のプロレタリア作家の闘争は激化されるが、東洋のポーランドである日本においてプロレタリア作家の歴史的使命は、革命的大衆の任務とともに画期的なものがある。
 林房雄は、プロレタリア作家として持つ自身の影響力によって、作品はその成功失敗にかかわらず、プロレタリア文学運動全線の問題として批判されるのであることを、まともに認めなければならぬ。ブルジョア・ジャーナリズムがわが陣営の作家を恐怖し、有能な作家が投獄されている時、われらは全力をつくし、どの一部を切ってもピチピチとそこだけで叫ぶべきことを叫び得るようなボルシェビキ的作品を創作してゆかなければならぬ。対立する階級の独占的文化機関の一部をわれらが占めたなら、それはプロレタリア世界観によって確保し、勝利の足場とすべきである。
 林房雄は二年の獄中生活の間、決してあんけらかんとしていたのではなく、大いに読んだ。朝五時に起きて午前中創作に没頭するという学ぶべき習慣も奪取してきたという話である。「青年」「乃木大将」その他は二年間の読書の成果なのであるが、林の作品を批判するにつれて、一つの強い憤怒が湧いてきた。それは専制国日本の刑務所で実行している読書制限の問題である。
 現在豊多摩にいる同志たちはトルストイやドストイェフスキイなどさえ禁止されているという有様だ。率直にいえば、そのような不便な
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