誅組」を書こうとも、取材を貫徹して、維新が、封建的地主絶対主義支配の門出であるという特性をわれらに示し、こんにちの窮乏した農民の革命的高揚、その娘が年々多く吉原に売られてくるという慄然たる事実の根源は、明治維新の農民搾取制度にみることが摘発されなければならぬ。さらに、樋口一葉がそれに向って彼女の小説の中で非組織的な小市民的反抗を自然発生的に示した、明治のブルジョア官僚=官員はほとんどことごとく階級層においては革命的農民と対立した地主的勢力の取巻き志士団のくずれであったこと、故にひろく衆をあつめる人材登用なるものも、実質的には地主的勢力によって占められ、文化は絶対主義宣伝として独占された。憲法発布の当時、「絹布のハッピを下さるのか」と驚いた平凡な市民の逸話からさえ、精鋭なプロレタリア作家はこんにちの抑圧的支配形態の偽瞞を曝露し得ることを理解しなければならないのである。

 さて、ここまで書いてきて、十一月『中央公論』の「青年」続篇をひろげた。林は「青年」第二篇において幾分筆致を引しめて書きすすめているが、第一篇に現れた基本的欠陥は克服されていない。筋は第一篇とおなじに、階級闘争の現段階から逸脱している上、青年志士連の幕府批判を説明した部分は、今日の読者に対してさながら愛郷塾の演説のような反動的役割を演じている。「幕府は肥壺である。ふりかえって京都を見よ。京都には、かつてわが国を無階級で自由な一国に統一して合理的な[#「合理的な」に傍点]政治によって万民をうるおした聖天子の末裔があらせられる。(中略)そのむかしの自由な日本はこの聖天子を幕府とおきかえることによって再生する。」この一文をよむわれらの脳裏に愛郷塾が髣髴し、社会ファシストの産業奉還論が想起されずにいるとすれば、むしろそれはおどろくべきである。
 林は獄中での精力的な読書にもかかわらず、「京都の一族が封建地主的存在としてどのような窮迫した経済状態にあり、新興ブルジョア日本の侵略主義帝国主義的確立のため、この封建的存在自身の経済的必要からいかに狡猾に専制的支配権力として活躍しつつ今日に及んでいるか」を、「青年」において曝露し得ない。「青年」第二部をよんでああこれは主題のとりおとされた小説であるという感じに打たれた。

 徳永直が十一月号の『改造』に文芸時評を書いている中に、作家としていろいろの批評に対するがんばり
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