境遇におかれる以前に、林はもっともっと基礎的な多くの勉学をプロレタリアの前衛として身につけておくべきであったろう。そしたら、不自由な読書の中からも掴むべき線は失わずに掴んだであろう。然し、これは、そうあったらよかったということに過ぎず、今日の激化した情勢のうちで誰がそのような十分の土台をつくり得た後、敵の襲撃に具えるということができよう。われらは、不意に、陰険に、不条理に短期間、あるいは長期間自由を奪われる。林は、二年の間、そのようにプログラムをもって読書してもなおかつレーニニズム的発展は十分なし得ないような書籍しか自身に許可しなかった支配階級に対して、かつて一度の憤りをも感じたことが無いであろうか。
「青年」が考証だおれであること、革命的作品ではないこと、そのような批判をうけることは林にとっては口惜しいであろう。そのような批判を避け難いと理解するとき、批判する者の舌はにがいのである。おなじくくちおしさで苦いのである。いわば無駄に読まされた百巻の書籍に対して林のために憤怒し、正しい知識を圧殺する野獣的暴圧に対してプロレタリア作家として血の熱するのを覚える。林房雄は作品に対する批判をまともに[#「まともに」に傍点]摂取し、プロレタリア前衛としての日常生活によって速かに立ち直り、抑圧そのものの形態として存在する読書制限による敵の重圧の痕跡を癒さなければならぬ。ボルシェビキ作家として発展することを、階級的抗議として敵の面前にうちつけなければならぬ。この一点に集中して敵の抑圧の組織を峻烈に検討するだけでさえ、よく一人のプロレタリア作家をして奮起せしめる階級的悪を見いだすのである。「われわれは、われわれがまだこれらすべての醜悪事の十分に広汎、明瞭かつ急速な曝露を組織し得なかったことについて自分自身を、大衆の運動からの自己の立ちおくれを責めなければならぬ、」「学生と異教徒、百姓と著述家の上には、その生活の一歩ごとに労働者をかくも抑圧し圧迫するその同じ闇の力が跳梁跋扈していることを理解し、また感ずるであろう。」(レーニン)[#地付き]〔一九三二年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年
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