文学について
宮本百合子

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 去る六月二十八日、本部において二三の政治局員と文化部関係者および新日本文学会のグループの合同会議がもたれ、来る七月三・四日に行われる党員芸術家会議に対する準備的な討論が行われたことを知りました。
 その席上、わたしについて書記長からの発言があり、その内容についてききました。
 当日、そのような会議のあることについて、わたしは全く知りませんでした。また、そこでわたしについての発言が行われるということもしりませんでした。したがって当然私自身は意見に代えるものを提出もしていませんでした。七月三・四日の会議も目下のわたしの健康事情では出席不可能です。ついては、本人が出席していないところで、責任ある人によって公的に発言されたことが事実をあやまっていることは迷惑ですから、この機会に簡単にわたしの事実を明白にいたします。

 本部の会議の席上いわれた書記長の発言を要約すると大体左の諸点のようです。
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一 宮本百合子の作品は大衆によまれていない。書記長は三行以上よめない。階級性がなくて多面性がない。観念的である。
二 宮本百合子は、ごうまんで天狗になっている。現代の紫式部と自任し、うぬぼれ、自己陶酔して、こたつにあたったような暮しをしている。
三 立候補しない。だから党的に成長しない。
四 宮本百合子を評価することは他の党員作家に対して有害である。
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 以上の項目の若干についてある程度の訂正もされたようですが、とりあえず全体としてかんたんに事実をあきらかにいたします。
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一 私の作品が大衆にどの程度よまれているかいないかということは、出版統計や職場の図書部や文学サークル、図書館その他に調査の大体が示しています。去る三月九日のアカハタにもしるしたとおりであり、これらについては反覆する必要はないでしょう。
  文学運動について多少とも冷静に客観的事実を重んじる人は、それが従来の民主的プロレタリア文学の読者層をより広く開拓したことは率直にみとめています。そのことはそれに満足するということでないのはもちろんですが。自身が三行以上読んだことのない小説についてどうしてその内容につき、階級的価値について断言することができるでしょうか。
  わたしの文学作品の階級性については、一九三一年ソヴェトから帰ってプロレタリア作家同盟に参加してから今日までの全作品と全評論とを冷静に検討すれば、基本的解答は明らかだろうと思います。もちろんそれぞれの作品には、出来、不出来もあり、むらもあるけれども、それらを一貫して明瞭な階級性があるから、度重る検挙投獄と執筆禁止を蒙ったと思います。戦前の作「乳房」は、ソヴェト世界革命文学の集に翻訳され、戦後の「播州平野」は、ソヴェトの文学新聞に、日本で広汎に支持されている階級的作品として紹介され、中国語にもほんやくされています。この事実は何を語るでしょうか。「播州平野」「風知草」の基調にあるものが前衛党とその活動家の新しい情勢のもとにおける一つの姿を描いていることは、いくらかでも文学を理解する人ならば否定し得ない点です。
  また「二つの庭」「道標」は古い小市民の有閑的な日常茶飯事を描いているものではありません。女主人公が社会矛盾にめざめて次第に共産主義者へまで成長してゆく過程を描いているものです。日本でまたいわゆる「赤」を恐怖させるために努力がされている今日、この仕事は無意味でしょうか。単に女主人公の経験だけを描いているのではなく、ソヴェト社会の建設、日本の帝国主義者のファシストとしての活動、日本の小市民家庭、インテリゲンチャの一部の混乱と崩壊、ポーランド、ドイツの労働者へのテロル、帝国主義日本の在外官僚の反ソ的言動、全体として若く建設されつつある新しいソヴェト社会と、老朽しすくいがたい矛盾を偽瞞によってのみおおおうとしている古いヨーロッパとの対比も描かれています。これらには労働者の階級的勝利への確信とソヴェト同盟への深い信頼が貫れています。こういう階級性は決して作品の具体的な世界から遊離した観念としてのべられているのではなく、作品の血肉として消化され、芸術として形づくられています。主人公は、まだ階級的に目ざめつつある過程が描かれているのですから、まだ共産主義者として行動していないのは小説として当然のなりゆきで、その点をもって小説全体に階級性がないということは当っていません。
  長篇の今後の展開の中で主人公は共産主義者として行動し、そこには過去十数年間日本の人民の蒙った抑圧と戦争への狩り立て、党内スパイの挑発事件、公判闘争なども描かれます。このような作品は日本の労働者階級の文学に新しい局面をひらいているということはたしかだと思います。ブルジョア文学が横光利一の「旅愁」のように、ヨーロッパをブルジョア民族主義の立場から書いた作品が広汎によまれている日本で、「道標」をふくむ一連の作品が闘争の階級的武器として一定の役割を果すことを信じています。
 国際帝国主義によって反ソデマがますます活溌にまかれるとき、題材は第二次大戦前にとられているにしろ、ソヴェト同盟そのものに対する信頼をひろめ、そのことによって日本の革命の前途を確信させるためにもまた一つの階級的意義をもつと信じます。
  一つの長篇の完成に努力しているときは、その仕事にうちこまなければ、ブルジョア文学に対抗し得る作品は成熟しません。もしただ自分の経験を個人主義的に反ぷくしているならば、それは批判に価するかもしれません。しかしこの作品そのもののうちに客観的多面性が乏しくないばかりか、わたしの作家、評論家としての戦後数年間の活動をしらべてみても、数巻にまとめられる文芸・社会・婦人等に関する評論や作品活動は、一人の文学者としてむしろ多面的な執筆活動であると思います。

二 わたしが紫式部を自任して、傲慢、うぬぼれ、天狗の自己陶酔にいて、こたつ[#「こたつ」に傍点]にはいったような生活をしているというような極端な罵倒は、わたしの生活、作家的努力の実情を全く知らない偏見に立ってだけ言えることだと思います。
  まず紫式部を自任している云々ということを、ごうまん天狗の象徴として強調されたようです。しかし、どんな階級的作家でも十一世紀の宮廷婦人小説家に、わが身を模して満足しているような錯誤した歴史感はもっていまいと思います。事実は、都の教育委員会への立候補を求めて故服部麦生氏などが来訪されたときの話がゆがめられ誇張されたものです。
  これまで、日本の権力は外国に示す日本文学の典型というといつも源氏物語ばかりひっぱり出した。しかし、こんにち党と民主主義文学運動は、日本人民のものとしての新しい大作をもつべきであり、もたなければならない。世界の革命の一環としての日本の革命的人民の文学をもたなければならない。それはわれわれ革命的民主主義作家の任務なのだから、いまはわたしに文学の仕事をさせておく方が大局からみて能率的である。教育委員には教育に関係をもつ人の方がふさわしい。そう言ったことが局部的に誇大してつたえられたのでしょう。このことからわたしが紫式部をもって自任して満足していると断定して批難するということはどれほど愚劣であるかあきらかであると思います。
  日本の歴代の権力は、天皇制の擁護のため愚民政策しか行って来ないから、日本の大衆は自身の人民的文化の意味をしらされず、紫式部という宮廷文学者の名も何か絶対めいたものとして大衆にうちこまれています。この習慣が党の活動家の常識のうちにも反映しているということがこの誤解の一因です。これを政治家の場合にあてはめて革命的政治家が当時の道長を模して満足していると言ったら笑話としてさえ通用しないでしょう。うぬぼれの象徴にさえなり得ない噴飯事です。

 「こたつにあたっているような生活態度」ということは、おそらくわたしが不健康のために外出せず、サークルにゆけず、立候補しないことなどから言われることでしょう。
  わたしは、一九三一年十月入党後、前後五回の検挙投獄を経験しました。しかし組織の秘密は守られ、屈服しなかったために、一九四一年十二月九日、太平洋戦争とともに戦争に非協力な共産主義者として投獄されました。一九四二年七月、巣鴨拘置所で熱射病のため危篤に陥ってからのち、一年ほど言語障害と視力障害に苦しみました。視力障害はこんにちもつづいています。一九四五年秋以来、創作のほかに可能の最大な範囲で講演、各種の委員会、選挙闘争など活動をつづけ、一昨年夏、第一回文化会議の直前高血圧と心臓機能障害によって医師から活動の制限をうけました。
  その後、昨年夏、再び心臓障害と高血圧に苦しみ、十二月、電気写真によって心臓の肥大と左室機能障害、尿中に多量の蛋白が発見され、絶対安静をいいわたされました。
  十七年危篤に陥ったとき腎臓をいためていたまま戦時中手当ができず、その後の活動によって慢性の難治な状態になっています。十二月から三月ごろまで尿毒症の危険があり、視力喪失の危険もあったので様々の治療を試みています。また医者も通院を禁止して来診しています。昨年十二月末からまだ外出せず面会も制限されています。半年以上散歩のための外出もしない状態は、自己満足というにあまり遠い事情です。もしわたしが自己満足してこたつにあたって暮す気分ならば、この肉体的な悪条件に抗して毎日創作の仕事を続けるだけの努力はしません。自分に対してより多様な活動を求めているからこそ、現在は健康をリスクしながら長篇を完成しようとしているわけです。作家は前をみています。常に前をみて一章から一章へと困難とたたかいつつ建設してゆくものです。

三 第一回選挙当時から、わたしの立候補がすすめられています。そのたびに当選の確実性がとりあげられ、体がわるければねていてもいいし、活動もほどほどでよいからと言われますが、国会およびすべての部署で働いている党員の経験からそのようなことが不可能であることは十分わかってきていると思います。もしわたしに大衆の支持があるからといろいろの場合立候補をもとめられるならば、それは長年にわたるわたしの文学活動と階級性に対する大衆の信頼の証明でしょう。そうだとすれば書記長の発言にあるわたしの非大衆性、非階級性、独善という断定はおのずから反証されているわけです。
  わたしが立候補できない一つは上述のような健康上の理由です。議員その他の必要条件の一つは、健康であるということは党員議員の一致した意見です。
  党は多くの人材を加え、婦人の間にも代議士その他として有能な活動家を出しているとき、実際に働けないとわかっているものを立たせ、当選させ大衆の信頼を裏切ることが賢明といえるでしょうか。わたしが健康をもっていないことは残念ですが、わたし自身の放らつによって今日健康を失っているのではありません。
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 立候補しないもう一つの理由は
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  民主革命の途上においてこそこれまで天皇制、軍事的権力のもとに生殺の権をにぎられ、弾圧されていた人民的能力の各種各様の開花が期待されるべきであると信じるからです。六月号の新日本文学をよんだ方は十返肇の小林多喜二についての短文中、「同志によって殺されたにしても」小林多喜二は満足であろうという文章をよまれたでしょう。
  同じような文句は一九三三年二月小林多喜二が築地警察署で拷問の果に殺されたとき、板垣直子がかきました。小林多喜二を殺したのは共産党であるというデマゴギーは、このようにして十六年後もまだ或る人々の観念の中にあるのです。共産党とプロレタリア文学運動に関係してわたしが人間性を失い同時に文学の能力を殺された、
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