或は失ったということは、わたし一人に対する誹謗としてだけでなく、共産党そのものへの誹謗として言われつづけたものです。そのためにわたしは、過去十二年間、僅に三年と数ヵ月しかなかった執筆期間に自身の階級的文学者としての未熟さを克服し、文学そのものによっていかにたたかい、語るべきかを発見しようとしてきました。そして、日本の敗北、前衛の解放は、わたしという一人の作家から口かせをはずしたばかりでなく、実に十数年間圧えられてきた人民の声そのものから口かせをはずしたのです。
  獄中十八年が書かれ、それがよまれるということは、書かれるべき獄外の人民の苦悩とたたかいの十八年があるということにほかなりません。それは小説に書かれ、人民の歴史のうちに形象化されるに価しないものでしょうか。もしそれが無価値であるというならば、獄中にたたかった人々の価値は何によって今日の現実の人民の生活のうちに歴史の裏づけをもって生きつづくことができたでしょう。
  前衛党の組織はひろくなり闘争面は多様になり民主民族のための強力な統一戦線をもつに至っているとき、文化科学の各専門家がそれぞれの分野で実力ある文化反動とのたたかいを行うことは革命のプログラムから逸脱したことでしょうか。特に日本と中国とは人民のおかれている政治と文化の環境がちがっています。日本の愚民教育網、警察網はゆきわたっており、今日ではさらに植民地的思想統制が加っている日本の人民は、人口のほとんどすべてが文字と新聞雑誌をよみます。その新聞雑誌が最近急テムポに反民主的方向に導かれていることは誰の目にも明らかです。ロシア、中国、朝鮮の人民が文盲撲滅の第一頁においてソヴェト権力、抗戦救国、民族独立の文字を知らされてゆくのとはひじょうにちがいます。イデオロギーのたたかいは、日本においてますます複雑な課題となりつつあります。すべての専門家は、単に、大衆の文化欲求の接待役として役立つばかりでなく、その新しい成長のための協力者であり、ある場合は表現者、形成者である必要があります。体がよわくて出席率のもっともわるい婦人代議士であるよりも、わたしは、一人の民主的婦人作家として活動することが現段階では、より革命の成果に加えるものをもっていると信じます。そして階級作家の活動の多面性は、作家としての活動ということのうちに、予測をゆるさない行動性をふくんでいることもまた自明です。

四 書記長の発言にわたしを評価することは他の党員作家のためにならないという意味があったようです。それはどういう理由からでしょう。わたしが立候補というような当面の便宜に役立たず創作の仕事をつづけ、また特定の性格に順応しないことが他の党員作家のために有害だという理由でしょうか。それとも私の文学活動を全体として階級的立場から評価することは有害であるというわけでしょうか。
  前者についてわたしは立候補しない自身の理由を明白にしました。その理由が現在の事情で客観的にも妥当性をもっていることは、教育委員会の選挙のとき来訪された方も理解されていました。
  わたしの文学的活動の階級性についてもこまかく説明したとおりです。もとより、わたし一人の作品が民主主義文学の全部を代表するものではあり得ないし、一人の作家の一定の作品に革命的課題の全部――教育問題から土地革命、中小商工業者、民族資本家の問題まで盛ることも不可能です。今日の要求にこたえるべき階級的文学の多面性に対してわたしがどのように積極的で開放的な見解をもっているかということは新日本文学六月号「その柵は必要か」に示されています。
  自分として将来にますます多様で豊富な活動を求められているのは当然のことです。現在の事情の最大限に活動し、革命にプラスする小説評論をかいている作家。そしてそのことによって進歩的読者に社会主義の具体的図絵を与え、党の意義を普及しつつある作家をその事実にたって公正に評価することが他の党員作家にとって有害であるということは理解しにくいことです。文学における政治の優位ということは文学運動と作家とを文化上の経済主義にしたがわせ、そのいうことをきかせるということではないと思います。文学のもっている浸透的で恒久性のある革命的力が理解されてよいと思います。
  現在、反動権力と反動文化の新しい攻撃に対してますます広汎な統一戦線が求められているとき小市民的な宗派主義を克服し、同時に「勤労者文学」一般でなく、プロレタリアートの文学の自覚を明らかにして党員作家の独自な活動により一層の展開の道をひらくことはきわめて必要です。その点で党員作家全部がさらに充実した前進を求められていることは明かです。
  このように強力な弾力性ある新展開がされることによって、党の文化政策も実質的に展開されるものだろうと思います。
[#ここで字下げ終わり]

   追記
 この文章は、当日の出席者である書記長、文化部、文学グループへ提出します。この文書に対して再び自己批判がないとか、ごうまんであるとかいう意見があるかもしれません。しかし、形式的に長いものにまかれろ式の確信のない自己否定は行いません。わたくしは個人的陳弁のためにこれを書いているのではなく、事実の尊重と党内デモクラシーのため作家の泣きねいりの習慣の克服のために書きます。



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「文化評論」
   1967(昭和42)年8月号
※日本共産党書記長(徳田球一)と党中央文化部および新日本文学会の党グループに提出された意見書の原稿。1949(昭和24)年7月2日執筆。著者の死後、はじめて党外に発表された。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月27日作成
2004年7月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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