、というような意味を洩している。漱石の主観の裡では、一箇の人間として宰相と同等である自我、専門とする文学の領域においてはその分野における権威者として自己を主張した気概が窺《うかが》われるのである。
然しながら、漱石が、人間性のより高さへの批判をもって観察した現実の自我は、社会の諸制約によって歪み、穢され、細分され、自我と利己との分別をさえ弁えぬ我と我との確執、紛糾であった。彼が晩年「明暗」を執筆していた頃の日記には、この偉大な芸術家の内心をさえむしばまずにいなかった日本文化の矛盾が露出しており、殆ど肌に粟を生ぜしめるものがある。漱石は、ブルジョア・リアリストとして自分の最高の到達点で「明暗」の驚くべき冷静、緻密な描写を運びつつ、小説を書いていると塵っぽくてやり切れない、だから詩をつくると云い、日に数首ずつの漢詩をつくっている。私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たとしたら、この恐ろしき矛
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