品は、個々の作家の間に僅かずつながらにしろあるのが当然であるニュアンスの相異などを、強調したその点において翫味されなければならない。そこに独創も試みられる結果となり、作品はますます末梢的になったり、非現実性を加えたりすると思われる。
 それぞれの人が、その人の声の音色で話すという自然な条件の一つとして、作品の持味がプロレタリア文学の内にもふっくりと生かさなければならないことは言をまたないであろうけれども、それが、多かれ少なかれ作品における文学的ポーズとなって定着すると、プロレタリア文学としての発展にとっては、すでに一つの対立物に転化する危険がある。作品の評価が基準を失ってされがちな時期には、このような一見平俗な危険にさえ、われわれ作家は決してさらされないと断言はされないのである。
 さて、最後に再び「風雲」にかえろう。
 この作がプロレタリア文化団体に関する取材であるからといって、もしこの作を「友情」や「白夜」と同じ類型に属するものとすれば、それは、杜撰であろうと私は考える。
 主人公の持つ方向と、作者の意企とは、それらの作品とむしろ対蹠的なものである。然し作品として見れば失敗の部に属
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