文学における古いもの・新しいもの
――「風雲」について――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)縷々《るる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)鉄の英雄[#「鉄の英雄」に傍点]ばかりではなく、
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これまで主として詩、評論の仕事をしてきた窪川鶴次郎が、今度『中央公論』に発表した小説「風雲」については、きっとさまざまの人の批評があるであろうと思う。
私としては、この作者が先ずこういうところから階級人の現実について省察しはじめた態度に、この人らしい着実な階級的勇気というようなものを感じた。
「風雲」には、竹造という文化団体関係の「対人関係における気の弱さ」をもった一人の階級人が主人公とされている。作者は、この作品において、竹造の基本的な非妥協性は認めつつ、いわばそれあるが故に一層はっきりとした基準によって客観的な批判の対象となり得る竹造の気弱さ、甘え、受動性などを、獄中における同志、良人、若い父親としての日常感情のうちに捕え、批判しようと試みているのである。
私は「風雲」を読みながら、若干の困難の後、だんだん作者の志したところを理解するにつれ、それがプロレタリア文学として成功したか失敗しているかは後にふれるとして、ともかく、これまで階級人の獄中生活を描いたいくつかの作品に比べて見ると、その方向においてある意味で歴史の新たな段階を反映していると感じた。
作者は、竹造という人物を登場させて来ることによって、今日の大衆化された階級対立の社会生活の現実にあっては、獄中生活を余儀なくされるのが、決して、昔卑俗に鋳型からぬかれてわれわれに示されていたような鉄の英雄[#「鉄の英雄」に傍点]ばかりではなく、全く竹造のような、どちらかといえば気質が弱い面を持った人間にとっても、ある場合避け難いめぐり合わせであり、しかも、そのような社会的日常の必然によって、階級人として重大な発展のモメントも「癩」「盲目」などのような特異性は附随していない、獄内の日常些事の中にさえ掴みゆくものであることを、語ろうとしていると思う。
「風雲」において、作者は、従来階級人の獄中生活を描いた作品が、多かれ少なかれ、からみつかれていたロマンティシズムを払いのけて、今日の拡大されている階級的対立の現実から、きわめて地道に階級的普通人という
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