ものを書こうと努力していると思われる。
 私はこの一篇の小説を読み、作者のつくろわぬ真率な人となりに打たれたのであったが、作者によって目ざされている主題の効果を、はっきり読者の胸に徹底させるためには、遺憾ながら未しというところのあることも、あわせて痛感したのであった。
「風雲」の主題は普遍性をもったものである。竹造という人物とその置かれている境遇、妻ゆき子との階級的夫婦としての特定条件の具体性など、作者がすっかり突ぱなして、客観的に描いてゆくことに成功したなら、すべての読者は、竹造の持っているいろいろな条件も、つまりは、百人、千人の階級人が、それぞれの事情において持っているであろう条件の一つとして作者にとりあげられていることを納得したであろうと思う。
 しかし「風雲」の中で、竹造と作者とのけじめは、そのようにくっきりとしていない。作者は、竹造のこまごまとした内的推移についてゆくうちに、あるところでは全く竹造と同化して余韻嫋々的リズムへ顔を押しつけているために、作品の後味は、この作品がある特別な階級人をその輪廓の内から書いているような錯倒した印象を与えるのである。
 積極的な方向をもつ主題なのであるから、作者がそれにふさわしい手法で、能動的に、しかもこくを失わず、複雑な竹造の内的活動と、妻ゆき子との交渉を、折々の情味ゆたかな具体性において引つかみ、押しすすめて行ったら、「風雲」は全く一つのつよくやさしい階級の心情を丸彫りしたものとなったであろう。
「風雲」について見る場合、作者の意企が作品に形象化され切らなかったという意味で、どちらかといえば失敗の作となっている。このことは作者自身も恐らく同感であろうと想像する。そして、失敗の原因がこの作品においては、主題と手法との間にある矛盾であると考える時、その問題を、作者の人間的な要素としての階級要因において分析しようとする欲望を感じるのである。
「風雲」において、作者は竹造の過去の身の上に具体的にはふれていない。私の理解し得る狭い範囲でいうことではあるが、この作者がこれまで階級人として実践して来た道を見てもおのずから明らかであるとおり、非常にまめで行動的な、骨おしみをしない性質の人である。彼はその能動性によってインテリゲンチアの生活から勤労階級に移行して来た階級人であり、将来の発展性をもその点にしっかりと持っている作家であると
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