文学と地方性
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)道を拓《ひら》いている

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年七月〕
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 この間或る必要から大変おくればせに石坂洋次郎氏の「若い人」上下を通読した。この作品が二三年前非常にひろく読まれたということも、今日石川達三氏の「結婚の生態」がひろく読まれているということと対比してみれば、同じような現象のうちに全く異う要素をもっていることで興味ふかく感じた。「若い人」が一般に読まれた要素の一つには、「結婚の生態」が今日よまれている要素と同じ種類のものもある。ごくつづめた言葉でそれをエロティックな要素と表現すると、「若い人」が『三田文学』に連載されやがて一般の興味をひきつけた時代には、そのエロティシズムも、少女から脱けようとしている特異な江波の生命の溢れた姿態の合間合間が間崎をとらえる心理として描かれており、皮膚にじっとりとしたものを漲らせつつも作者の意識は作品としてその虚々実々を執拗に芸術として描き出そうと力一杯の幻想も駆使している。
 ちょうど生命の行動性が文学の上で云われたり、人間まるむきの姿というものが求められていた時期に石坂氏の努力は文学そのものの在りようとしてやはり当時の気持に触れたところがあったろうと肯かれる。文学作品として、そして通俗性にもひろがった作品として、石坂氏の今日の一連りの作品の先駆的なものとなった。当時はまだ文学の領野で、芸術作品と通俗作品との区別が作家の感覚のうちに保たれていて、さまざまの苦悩は芸術としての作品を生もうとする意図の上に自覚されていたと思う。石坂氏の作品は、作家としての意図では芸術的であろうとしたことで、純文学にふれつつ、作家的本質の或る通俗な持ちものでいつしか純文学が通俗作品へ大幅にすべり込むに到った日本文学の或る歴史の道を拓《ひら》いている点が、今日顧みられるのである。石川氏の現在のところまで来てみると、もう文学の感覚として、芸術作品と通俗作品との源泉的相異の自覚が喪われて、その喪われていることの感覚さえなく出現している作家であることが感じられる。
 石坂氏の「若い人」でもう一つ興味をもって感じたのは、終りで、江波と肉体を近づけた後の間崎の敗北に足並をそろえて遁走している作者の姿であった。江波と初めてそういういきさつに立ったところを、「次の夜彼等はお互の愛を誓い合った」という一行でだけかいて避けているところも、印象にのこる。それまでの筆致の自然な勢と傾向とを、そこでは体を堅くして踏んばってそれだけにとどめているところ、そして、愛を誓いあった、という表現が何か全体の雰囲気からよそよそしく浮いているところ、それは逆に作者がそのような相愛の情景を、愛の濤としては描けない自身の感覚にあったことを思わせる。描けないものとしてわきまえる常識とその常識の故に間崎のエロティシズムも、「痴人の愛」の芸術的陶酔として白光灼々とまでは燃焼しきらないものとなっていることもわかる。
 この一篇の長篇の終りは、遁走の曲で結ばれている。さまざまに向きをかえ周囲を描いていじって来た江波から、作者はついに常識人である間崎とともに橋本先生につかまって逃げ去っているのであるが、ともかくあれだけの小説のボリュームを、作者が、主人公を東京へ逃がすことでしめくくっているのを、非常に面白く思った。小説としてはそれで何にもしめくくりになっていないわけだのに、困った作者は、一応間崎を橋本先生と東京へ落してやって、一息をついている。作者が、何か遠い地方住居の日常で東京へ行ってしまった間崎の後姿を感じている感じかたを、面白く思った。自分の愛する若者もとうとう東京へ行ってしまった。そのことで境遇の絶対の変化を自分に云いきかす地方の娘の心理と通じるものが全くそこにないと云えるだろうか。
 フランスの作家が途方にくれると、よく主人公をアルジェリーへ旅立たせてしまう。東京暮しの作家は同様の場合、とかく軽井沢だとかアルプスだとかを思い浮べるらしい。そして、多くの場合そのいずれもが、作家としての降服の旗じるしであることが自覚されている。
「若い人」の終りにしろ、その本質は同じであるが、ずっと終りまで読み、本を伏せ、「麦死なず」「闘犬図」その他の作品にあった空気を思いおこし、つづいてこの頃の石坂氏の短篇にある空気を思い合わせたとき、この作者のこれまでの作品の世界の色合い、雰囲気と地方での生活というものとが、案外に深い血肉性で作用しあっているのではないかと感じられて来た。
「麦死なず」という作品にふれての評のなかで、或る時代の地方における文化のありようを、この作者がつよく描いていると云ったのは窪川鶴次郎であったと思う。そ
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