。アメリカの文学、ソヴェトの文学、どれも文体そのものの血肉の中に大きい陸地の上に生きて歴史を営んでいる人間の或る感じの特徴を脈うたせているという感銘は誰にとっても否定し得まいと思う。
このことも何となし心にのこされている事柄の一つである。
そこへ、六月『文芸』で中村武羅夫氏の「文学の地方分散」という感想を読んで、更に一つのものを加えられた心持がした。
従来文学が中央へばかり集ってしかもそこで類型化し衰弱しているように見える昨今、文学の地方分散の情勢が招来されつつあることは、朝鮮・満州などの文学的動勢に対する中央の文壇の関心を見ても、九州文学、関西文学などの活溌さを見ても、将来の文学に多極性と豊富さをもたらすものとして、大いに見らるべきであるという論旨は、同感であると思う。特に素材主義の文学が正当な成長をとげ得ない社会的な理由にふれて、このことが云われているのも注意を惹かれる。火野葦平、上田広というような作家たちが都会生活にとどまらないで、それぞれの故郷でもとからの職業に復して、その上で文学の仕事をしてゆく態度への筆者の肯定も理解される。
そして、「若い人」「麦死なず」その他から今日の石坂氏の作家としての東京でのありようを考え、地方生活と作家の成長との関係を思っていた折から、自分としては、ここに石坂氏と背中あわせの形で作家としての火野氏や上田氏があらわしている地方性と文学との問題を感じるのである。
農民作家の文学における意味については、農民文学云々と喧伝される初めから、恐らく多くの人々が、永年の都会住居で揉まれた揚句の農民作家としての再出現に対して或る疑問を抱いているだろうと思われる。それが手軽く今度は南洋へという風に動くのも、文学の必然の稀薄さのあらわれと云える。それならば、農民の生活を描こうとする作家は、みんなそれぞれの故郷の田舎に一人の農民としての日々を暮しつつ、その上で作品をかいて行ったらよいだろうと思えるし、それがいいにちがいはないけれども、いざ実行して見るとそこに沢山の困難が横わっている。例えば佐々木一夫氏という農村の生活を書いている若い作家の実際を傍からみても、その困難の複雑さを教えられた。農業そのものの方法から日本では極度に人力が要求されていて、その上現代の社会経済に対抗して生計を立ててゆくためにはあらゆる方法で多角な経営が必要となって来る。
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