主人の労力は昼夜のわかちなく求められて、農繁期に机に向うことなどは思いもよらない。冬ごもりの期間にどうやら継続的に文学の仕事にたずさわることが出来るとして、ずっと辺鄙な地方での生活は文化的な雰囲気というものに欠けていて、その点でのいい刺戟を求める心持の激しさは、やはり東京へ、という思いに駆り立てる。
 これまで、誰も彼も、文学への立志と上京とを結びつけて行動されて来たのは、ここの動機からであったと思える。都会のもっている文化と地方の生活の中にある文化との落差は、はたで一口に云えないニュアンスをもって深刻に存在している。都会の文化の中に人間の精神を強めるものと殺戮するものとがあるとおり、地方の文化のなかには別の形でその根づよさその伝統の力で、人間の精神を生かしまた殺すものがあるのは事実であろう。
 文学の地方分散の傾向が、この面で大きく文化的な積極の作用をあらわし、土着の生活的な文学を創り出してゆく刺戟、鼓舞となれば、そこでこそ中村氏の感想に云われているような文学の豊饒への道がつけられるのだろうと思う。
 火野葦平氏をかこんでの『九州文学』は一つの活溌な息づきを示そうとしていると思えるが、文学のグループとして目ざしているところは、九州という今日の日本にあって意味深長な地方における現代生活の歴史を、その文学につくり出してゆくための土着の動力としての価値高い任務の自覚に在るのだろうか。中央の文壇の関心と云われているものの本質もそこにおかれているのだろうか。
 沖仲仕の元じめとしての作家火野の生活の感情というものも、この意味からはなかなか興味があると思う。沖仲仕という職業、その職業での伝統、その伝統にある感情というものは、職業のもたらす性格という一点では、各地方に分散する同じ職業者の心理、情緒と相通ずるものをもっていることはうなずけると思う。そして、その職業の歴史的な内容からおのずと生じている感情の角度においても、大同小異と云えよう。そうだとすれば、職業からもたらされる感情の傾き、その波一般では、地方土着の文学の素質を決定するものとならない。
 単に郷土的意味で、そこから一人代議士が出ると、村の有志は皆年に一度ずつその代議士のひきで東京見物をすることになる実際が、文学以前のことであるのも自明である。
 地方に分散して何かの力をもつ作家やグループが、真に文学として分散して存在
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