けれども、社会のはげしく移り変る世相そのものをただ追っかけて、漁って、ちょっと珍しい局面を描き出したとして、それはたしかにそういうこともあり、そうでもあるかもしれないけれど、往来に向ってとりつけられたショーウィンドが、何でもただ映すのとどれほどのちがいがあろう。文学としての現実の芯のふかいところにまでふれたものだろうか。
 どんな文学の初心者でも一人の人の顔にあらわれる表情や動作には、きっと内部の心とつながりがあることを知っている。だからこそ「彼女は無意識にマフラーの結び目へ手をやった」というような動作の描写が、むこうから近づいてきたまちの人の姿を眼に入れた瞬間の、彼女のしぐさとして描かれる必要も生れてくる。一人の人の表情、動作についてさえ、文学の目というものがそこまで立ち入るものであるなら、社会の集団が集団的に表情している表情やもののやり方――たとえば金銭とか男女関係のありかたなどにも、その人びととしては無意識にそうなってゆく、または居直ってそうしている底の原因までが文学の目で見出されなければならない。

 一つのコップのスケッチでも、それは影を正しく描き出されることではじめてコップ
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