そんな虚無性の一方でイデオロギーとして知識の形で、頭に入っているものだけを自分の階級性だと思ったりしているところからは、生きた実感で統一された文学が生れるわけもない。
 日本の新しい文学が生れてくるためには、おびただしい困難がある。商業ジャーナリズムの害悪はもちろんである。しかし、もっと深いところでこんにち認められる危険は、資本主義社会のいわゆる文化、娯楽が、きわめて知覚的な刺戟の連続として歌謡・バレー、あてものなどで組立てられ、プログラムづけられているということである。労働条件のわるさ――たえざる疲労と心労、生活不安と、からみあって来ているこの娯楽の知覚的な方向へのそらせかたは、よほど警戒されなければならない。働いて、くたびれた時間の全部は、じっと考えさせず、たえず音や色や動きでまぎらしてしまおうとする娯楽の知覚化――「二十の扉」や「一分ゲーム」や「私は誰でしょう」などは、瞬間瞬間をこまぎれにしてちりぢりばらばらのトピックに注意を集中させるようにできている。全く考えに沈潜する習慣を失った、散漫で、お喋りな人間――自分に何も分っていないということについて、全く気づいていない人間をつくるに役立っている。よくならされた犬のように、ヒントで支配される隷属的人民をつくるための方法であるとさえ云える。
 封建性がのこっているために、目前の権力に屈従しやすい日本の習慣の上へ、第一ヒント、第二ヒント、ヒントで導かれる心理習慣に抵抗しなかったら、わたしたちの生活と文学の自立、独立性とはどうなって行くことだろう。
 小説は、よんでいる間だけすらすらと面白ければそれでいいのだ、深刻に考えるようなあと味がのこったりしてはいけない、というあるジャーナリストの意見に正宗白鳥が賛成している。これはリーダーズ・ダイジェストの編輯方針と全く同じである。自然主義から出発して「牛部屋の臭い」というような小説をかいた白鳥が、こんにちでは日本の現実からはなれて「日本脱出」という風な作品をかいて、小説までも知覚的な気まぎらしであることに同意していることは、自然主義的な白鳥のリアリズムのこんにちにおける敗北を語っている。

 文学の創作方法としてのリアリズムについては、これからさきもますます、ことこまかに研究され、発展させられてゆく必要がある。なぜなら、リアリズムだけが、人類社会の発展の各段階と、個人の社会的
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