かされている部面の余り多いことにくらべて、はるかに社会保障の大きい社会主義の社会を思いくらべずにいられないだろう。遠いよその土地の美化された物語としてではなく、このごたついた、でこぼこのひどい、けなげなひとびとの足もつまずきやすい障害だらけの日本の中で、じりりじりりと推しまわされてゆかなければならない、人民の民主主義にたつ社会へ新しいまわり舞台。その仕組みについて考えるとき、彼女は若々しい人生への意欲と愛とにもえればもえるほど、ほかならない自身の肩に、しっかりうけとめて推してゆかなければならない、労働者階級の勝利への心棒があることを感じるだろう。けなげで忍耐づよいアサの知らなかった生活と文学の実感がここにある、新しい歌がある。
 文学の仕事をしてゆこうとしている人は、実感を尊重して、文学のこと以外に多くのことを学ばなければならないということは、多くの人によって云われている。いつか佐多稲子が小説を書く人の心がまえとして、意識というと階級意識と限って考えられる傾きがあるけれども、階級についての意識ばかりでなく、生活のうちにふれてくるすべてのことに意識をもたなければならないという味わいの深い言葉を書いているのを読んだことがある。実感の豊かで、強い内容は、稲子さんが云っているとおり、あらゆる場合めざめている意識をとおしてその人のうちにつみかさねられてゆく。
 意識するということは、生理的に知覚すること――ただある音がきこえた、ただあることがみえた、そして、きこえた音、見えたものごとから人間の神経がそれに応じる一定の反射作用をおこした、ということではない。意識するということは、知覚されたものの質や意味までをこめて生活感情の中に積極的にくみとるということである。そして心というものは、宙に浮いたものでなくて、かならずその人の生活とともにあるものだ。生活は社会関係の中にその人がどんな立場でおいこまれているかということに基礎をおいているから、したがって生活感情としての美の意識までも自らちがいをもってくる。知覚されたものに対しての評価と判断がある。耳にこころよいメロディーというものも、その人の全生活の内容、個々の生活の営まれている方向とのつながりをもっている。だからどんな音でもきこえて来る音に対しては受け身で、いわゆる無意識にきき流し、どんな習俗でもそれがはやりなら無意識にまねをする。
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