けれども、社会のはげしく移り変る世相そのものをただ追っかけて、漁って、ちょっと珍しい局面を描き出したとして、それはたしかにそういうこともあり、そうでもあるかもしれないけれど、往来に向ってとりつけられたショーウィンドが、何でもただ映すのとどれほどのちがいがあろう。文学としての現実の芯のふかいところにまでふれたものだろうか。
どんな文学の初心者でも一人の人の顔にあらわれる表情や動作には、きっと内部の心とつながりがあることを知っている。だからこそ「彼女は無意識にマフラーの結び目へ手をやった」というような動作の描写が、むこうから近づいてきたまちの人の姿を眼に入れた瞬間の、彼女のしぐさとして描かれる必要も生れてくる。一人の人の表情、動作についてさえ、文学の目というものがそこまで立ち入るものであるなら、社会の集団が集団的に表情している表情やもののやり方――たとえば金銭とか男女関係のありかたなどにも、その人びととしては無意識にそうなってゆく、または居直ってそうしている底の原因までが文学の目で見出されなければならない。
一つのコップのスケッチでも、それは影を正しく描き出されることではじめてコップという立体的な物体としてあらわされる。平面的に見えている側だけ書いても、それは五つか六つの子供の絵でしかない。童画は、原始人の絵画のように単純だが、鋭い感受性にパッと強くうつったその面だけの印象をうつすから、小さい子の絵はたいてい人間の丸い顔からはじまる。鼻や耳の細部は全然見おとされるか、さもなければあっさり描かれて、たいてい二つの眼が印象の中に大きく強く、とらえられている。それから口が。これは子供の脳細胞の生理的な発育の段階を語っている。
風俗小説、中間小説の題材とテーマが性に最大の重点をおき、その点にばかり拡大鏡をあてて人間関係を見た状態を、この童画の心理にひきくらべて考えると、その気狂いじみた性への執念はむしろおろかしく、物狂わしい非人間生活の図絵としかみえない。社会が未開であったとき、性の神秘は人間誕生のおごそかなおどろきとむすびあわされて、性器崇拝となった場合もあった。けれども日本のいまの肉体文学のように、人間の理性の働きの面を抹殺した性への溺死は、軍国主義やファシズムの人間性抹殺のうらがえしの現象である。日本の敗戦がこういう社会経済事情をもたらしたから、いわゆる性的失業者
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