ゆく条件などについて、単に受動的でいられなくなっている作家、著述家があらわれてきている。
 一九四五年八月、戦争が終って、日本に民主的方向が示された。言論の自由・出版の自由がとりもどされた。それから今日まで、十数ヵ月経つ間に、民衆のとりもどされたはずであった出版の自由や言論の自由というものは、どういう現実で推移して来ただろうか。これについては、真面目な反省がいる。
 形式の上で、自由にされた出版、自由にされた言論が、現実に自由に存在するためには資材がいる。出版の自由は、自由につかえる紙が土台である。紙が闇で、それは刻々に値上りし、紙のタヌキ御殿が出現して新聞を賑わす有様は、出版の自由がどんなに歪み、単に営利化されているかという事実を表明している。一頁あたりの闇紙が高価ならば、その一頁からうんと儲けなければならないのが、資本主義の出版企業である。卑猥な出版物が全く闇紙をつかって、しかも厖大な利潤を得ているのに、教科書がないこと、参考書がないことを訴えている学生は、国民学校から大学から労働者学校に充ち満ちている。ごく具体的な一例を仮定すれば、父親の小説は一冊千円でうれているのに、その子の教
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