したら、日本の明日はどういうことになるだろう。
 資本主義経営の矛盾が、生産にしたがう勤労人民の幸福を犠牲としているということは、もう殆どすべての勤労者が理解している。組合に組織された勤労者は四百万人になった。これらの人々は、一歩ずつより合理的な生産の関係に入ろうとし、憲法が明記している基本的人権を実現させようと努力している。経済的な要求の必然は、今日生きて働いているすべての人にわかっている。けれども、人間は食だけで生きているものだろうか。或は投げ与えられたものを食うことで満足してゆくほど動物めいたものだろうか。そうでないと思う。勤労大衆は、自分の社会的勤労の価値を自覚すればするほど、自分の人間のねうちに目ざめ、俺の意見に自信をもち、俺たちの組織に確信を得、そして、勤労階級の発展のための希望と実行を、自分の一生の発展と希望との同義語として心に抱いて来る。
 まともな勤労人民の、文化的な欲求というものは、音楽でみれば職場のハーモニカ合奏団、コーラス団から、ショスタコヴィッチの第九シムフォニーをきいて見たいと思うところまで拡大している。初歩的な機械についての案内書から、資本主義の解説から、トルストイやゴーリキイまでが読みたいと思われ、読書は生活の必要と感じられている。組合は、文化部の意味を理解しはじめて来ている。けれども、このような悪質な闇紙問題にからむ悪出版について、出版・印刷の労働組合とその組合員はどう考えているだろうか。
 印刷行程の困難な事情に応じて、出版・印刷関係の勤労者が、最低生活を守るために闘った。物価の高騰と歩調を合せないまでも、いく分ましの賃銀の条件になり、婦人は生理休暇ももてるようになった。
 けれども、本当に自主的な自覚のある勤労者として、今の日本の、民主化とは皮肉悪辣に逆行している出版事情を観察した場合、働くものの鋭い見識と実力の発揮は、単純に、経営者対被雇傭者の経済問題だけに局限されているはずのものなのだろうか。自分の指先で植える一つ一つの字が、自分たちの階級の善意を愚弄するような本質のものであるのに、その作業から経営者が厖大な利潤を得るからそれを合理的分配に置こうとするだけであるなら、勤労者の人間としての要求は、一面的だと思われる。直接の関係がそこにあらわれないかのようではあるが、そういう闇紙の存在、悪出版の横行そのものを可能にしている社会の仕組みこそ、勤労人民をこのひどいやりくり生活においているのであるし、植えられてゆく一字一字の内容が、いわばこの死活問題が、どういう方向で処理されてゆくかということにかかわっているのである。一行、頽廃の文字がより多く植えられれば、勤労人民生活の向上に関する一行は現実に減ってゆくのである。
 それぞれの生産部門の特殊性というものは、意味ふかい自省を求めていると思う。出版・印刷の全組合員が、悪出版に抵抗して、組織ある発言をするとき、闇出版屋の横暴が何の痛痒も感じないということはあり得ない。出版・印刷関係の勤労者は、もっともっと自分の仕事の社会性を知ってほしいと思う。目さきのケースを越して、そこにつながる自分たちの人生のねうちとして、活字を見てほしいと思う。その一字一字が、自分の声のかたまった形として感じてほしいと思う。
 これまで、文筆家・作家たちは、自分たちの文筆活動について、稚い幻想をもって来た。文筆活動は、肉体の勤労よりも人間的に高級ででもあるかのように思いこまされて来ている。しかし、それが非現実であるのは、夏目漱石の遺族がどんなに印税をとったにしろ、岩波書店ほど金もちにならなかった一事をみてもわかる。現代の殆ど全部の文筆家・作家は出版企業のために、その利潤を得るために働いている。原稿料・印税で賃銀をしはらわれ、「先生」という呼びかたで、一種の立場にくぎづけされている。著作家組合が出来たとき、文筆家は、自分のところで、自分の道具で、自分の時間で執筆するのだから、外の勤労と条件がちがうと考えた人があった。税務署も、文筆家は、ほかの勤労とちがうとして、開業医、弁護士なみの所得税徴収の基準をたてている。私たちは、作家という社会的な仕事を、現実に自分の企業として行っていない。労作の努力、そのかげにかくされた永い歳月の辛苦、それらは一枚いくらという原稿料で支払われない人生の刻々の蓄積である。それをいわないで、勤労の標準価値としてみても、原稿料は、出版企業のより巨大な利潤に比べて比較にならない小部分をしめている。商品としてうごかされる一万部の本の一割二分、五分、が印税である。
 そう見て来れば、文筆活動が、社会の文化生産のための勤労として、やはり、資本の本質にしたがった関係におかれていることが明白である。ただ、近頃一部の作家の間に流行しているように、小金をためて来た作家たちが、
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